三国時代_(中国)
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その後、曹操軍の夏侯淵らが韓遂・馬超ら雍州・涼州の豪族の勢力を壊滅させ、雍州・涼州を平定した。これで曹操は河北・中原地域を完全に領有することとなった。

213年、曹操は軍を濡須口に進め、孫権も自ら軍を率いて防衛にあたった。呂蒙甘寧の活躍もあって、曹操はしばらく対峙したあと撤退した。(濡須口の戦い・第一次戦役)。

213年、董昭の発案により、曹操は魏公となり、216年には曹操は魏王となった。

214年、劉備は張松法正?統の謀略を用いて、劉焉の子の益州刺史の劉璋を攻め降し(入蜀)、荊州に加えて益州も領有した。

同じ頃、孫権は呂蒙甘寧凌統らと出陣し、廬江郡の皖城を奪取した。

劉備が益州を奪取した後、孫権は劉備に荊州の長沙・桂陽・零陵の3郡を要求したが、劉備は涼州を手に入れてから荊州を再分割しようと答えた[1]。そこで業を煮やした孫権は怒り、長沙・桂陽・零陵を支配するため役人を送り込んだが追い返されたので、呂蒙を派遣し、長沙・桂陽・零陵を攻略させた。そこで、劉備も大軍を送り込み、全面戦争に発展しそうになった。

215年、このような劉備と孫権の険悪な情勢の中で、曹操は漢中にいた五斗米道張魯への攻撃を開始し降伏させた(陽平関の戦い) 。このことに危機感を抱いた劉備は魯粛の取り成しもあり、長沙・桂陽を孫権に割譲し和解した。荊州統治の係争が一応の解決を見て、孫権は10万の大軍を率いて合肥城を攻め、撤退時に張遼らの追撃を受けたが、呂蒙・凌統らが懸命に孫権を守った(合肥の戦い)。荊州を巡る一連の紛争は両者の間に大きな禍根を残すことになった。

ここで三国鼎立の形が定まった。
三国争覇孫権

216年、曹操は自ら軍を率いて孫権征討に赴き、翌217年、孫権は曹操と講和した(濡須口の戦い・第二次戦役)。

219年、劉備は自ら漢中に出兵して、これに従軍した黄忠趙雲の奮闘もあり、守将の夏侯淵を討ち漢中を奪った(定軍山の戦い)。この地を獲った劉備は漢中王を名乗る。この称号はかつて劉邦が漢中(南鄭)の地で漢王を名乗ったことに倣ったものと思われる。

荊州の劉備領を守備していたのは関羽で、その頃の関羽は荊州北部の曹操領に対して猛烈な攻撃をかけ、曹操の部将の于禁が率いる七軍を壊滅させ、樊城襄陽を包囲した(樊城の戦い)。一時は曹操すらうろたえて遷都を考えたほどであった。そこで曹操は、孫権に長江南部の領有を認める条件で孫権と同盟を結び、孫権に劉備を攻撃するよう求めた。かねてより荊州問題で関羽に不信感を抱いており、また呂蒙の進言もあったため、孫権は荊州攻略を呂蒙に命じた。関羽は、呂蒙陸遜の策にはまり、孫権に捕らえられて処刑され、南郡・武陵・零陵は孫権の領有するところとなった。この戦いの結果、劉備たちと対立することが確定的となったために孫権は曹操に対して形式的ではあるが、臣従した(孫権は部下の提言もあり、一時は劉備との対立をそらすため、関羽の首を曹操の元へ送ることで打倒曹操を掲げる計画を立てたが、逆に劉備の怒りを増大させることになり対立は深まった)。

220年に曹操が死に、後を継いだ曹丕はついに献帝より禅譲を受けて皇帝(文帝)となり、魏を建国した。これを聞いた劉備も対抗して221年に皇帝に即位、漢の後継者と称した(蜀(蜀漢)の創設)。

皇帝となった劉備だったが、長年の部下であり義兄弟である関羽と魏攻略の足がかりとなる荊州を失った怒りは激しく、孫権に対する復讐戦を企図し、反対する者を遠ざけて出兵に踏み切った。蜀漢軍は最初のうちは連戦連勝であったが、呉の陸遜の策にはまり大敗(夷陵の戦い)、劉備は退却し白帝城で崩御した。その後を劉禅が継ぎ、諸葛亮が丞相として蜀漢の内外政を一手に引き受けることになる。

蜀漢に大勝した呉は、長江南部の地域に確固とした基盤を築いたことから、魏に対して従属的な姿勢をとる必然性もなくなり、元号黄武と定め、独立色を明確にした。さらに劉備亡き後の蜀と同盟し、再び魏に対抗するようになった。

魏の文帝は内政面に意を砕き、新しく九品官人法を施行した。この法は南北朝時代末期まで適用されることとなる。また、222年魏は3方向から呉を攻め、呉を苦しめたが、疫病が流行したため退却した。関羽

その後も文帝は、連年にわたり呉へ出兵を繰り返すも、徐盛らの奮戦により全て撃退された。226年に40歳で崩御、曹叡(明帝)が後を継いだ。

蜀漢の諸葛亮は魏に対する北伐作戦を最終目標とし、そのための足場固めのために225年には南征を行い、蜀漢に反逆した雍?高定の反乱を鎮圧した。

2年後の227年に諸葛亮は出師の表を奉り、北伐を決行した。この戦いは7年間・5度に及び、諸葛亮は魏の曹真張?司馬懿郭淮らと戦い、武都・陰平の2郡を獲得し、張?を討ち取った。234年の最後の北伐の最中、五丈原の陣中で諸葛亮は病に倒れ没した。その後の蜀漢は一旦は消極的な政策をとり、大規模な軍事侵攻作戦を実行しなかったが、姜維が軍権を握ると北伐を繰り返し国力を消耗した。

228年、呉の周魴が偽りの降伏を魏に申し出て、魏の曹休を石亭に誘い出した。呉の陸遜は朱桓全jを率いて曹休と戦い、大勝した(石亭の戦い)。

呉では229年孫権が皇帝を名乗り、一時代に1人だけの名目だった皇帝が同時に3人並ぶことになった。この時、呉と蜀漢は魏を打倒した暁の魏領分配を決めている[注釈 1]

230年に呉は海を渡って夷州(いしゅう)と亶州(たんしゅう)に兵を出したという記録があり(夷州には辿り着いたが、亶州には辿り着けなかった)、これは台湾(夷州)と沖縄諸島(亶州)ではないかと考えられているが、日本ではないかとも考えられている。

この頃、呉の呂岱は交州に出兵して、この地の独立勢力の士氏一族を滅ぼして、この地を呉の直轄とし、南海交易の利益を占めた。

234年から3年間、呉の諸葛恪陳表顧承らは揚州の非漢民族である山越を討伐し、降伏した山越の民を呉の戸籍に組み込み、兵士を6万人徴兵した。

235年、魏の幽州刺史の王雄の命令を受けた韓龍は、鮮卑族の軻比能を暗殺した。
司馬氏の台頭交阯之亂 263-265

呉軍を撃退し諸葛亮の北伐を防いだ魏の司馬懿は、その軍功と権力から周囲に警戒されるようになる。この時期に遼東には公孫氏勢力が独立していたが、呉と結んで魏に対抗するようなそぶりを見せたために魏の中央は司馬懿に対して討伐を命じ、238年、これを滅ぼした。その翌年の239年卑弥呼の特使が魏に訪れた(魏志倭人伝)。また、魏は遼東を完全に支配下に置くことで東の高句麗と国境を接するようになり、のちの244年には武将・?丘倹が高句麗首都を陥落させている。

239年、曹叡は34歳で崩御し、養子の曹芳が魏の皇帝となった。曹叡は死去するに際して司馬懿と皇族の曹爽に曹芳の後見を託したが、後に司馬懿は曹爽とその取り巻きに権力を奪われ、閑職へと追いやられた。これに対して司馬懿は249年に息子の司馬師らと共にクーデターを起こして曹爽一派を殺害し、権力を掌握した(高平陵の変)。完全に魏を牛耳った司馬懿だが、旧主の曹操に倣って帝位の簒奪は行わないまま251年に死去した。

その後の権力は司馬師に受け継がれ、司馬師が死ぬと司馬昭に受け継がれる。この間、255年の?丘倹の乱(?丘倹・文欽の乱)や257年諸葛誕の反乱(諸葛誕の乱)などの司馬氏支配の魏中央政府への反乱が何度か起きるが、司馬氏に対する有効な打撃力とはなり得ず、鎮圧されていった。諸葛誕の反乱は、魏軍26万と諸葛誕・呉軍20万が1年にわたり激突した大戦であった。

呉では、孫権が皇太子孫和と孫和の弟の孫覇の両人をほぼ同等に処遇したため、立太子を期待する孫覇派と廃太子を防ごうとする孫和派の対立を招いた。孫権が決断を欠いたため、対立は泥沼化し、吾粲が処刑され、陸遜が憤死するなど、国力を衰退させた。この問題は、250年、孫和が廃太子され、七男の孫亮を皇太子に立てることで決着した。孫覇は自害を命じられ、多くの孫和派と孫覇派の人物が誅殺されたり、追放された(二宮事件)。

252年に孫権は崩御し、孫亮が10歳で皇帝となると、太傅大将軍の諸葛恪が呉の政権を握った。諸葛恪は252年に孫権の死後を狙って侵攻してきた魏の胡遵・諸葛誕に大勝して声望を得るが、翌年の魏への侵攻は失敗に終わり、疫病で多くの兵士が亡くなった。これで落ちた声望を回復するために国内の豪族勢力を押さえ込んで中央集権を志すが、これに不満を持った皇族の孫峻によるクーデターが起き、諸葛恪は殺され、孫峻が丞相となり呉の政権を握った。

孫峻は自分の権勢のためだけに独裁政治を行った。256年に孫峻が病死すると、孫峻の従弟の孫?が権力を握り、孫峻同様の独裁政治を行った。257年、魏で諸葛誕の反乱が起きると、諸葛誕と手を結んで魏を攻めるが、失敗に終わった。孫?の影響力が低下したことを見た孫亮は孫?の排除を図るが、逆に孫?により廃位され、孫権の六男の孫休が代わりに擁立され皇帝となった。


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