三国時代_(中国)
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190年、これに反対する刺史太守などの軍閥たちは各地で反董卓の軍を挙げて、連合して董卓を攻めた(反董卓連合軍)。連合軍と董卓軍は何度か激突するが、董卓は洛陽に火をかけて焦土とした上で、西の長安へと引き揚げ、長安に都を移した。袁術の部将の孫堅が洛陽を制圧した。

この時点での後の三国の創始者たちの動向であるが、魏の創始者である曹操は連合軍には参加しており、自前の兵力は少なかったが、鮑信と手を組んで、董卓軍に果敢に挑んだものの、大敗した。蜀漢の創始者である劉備は連合軍の中の公孫?の配下の一武将に過ぎなかった。呉の創始者である孫権の父の孫堅は、荊州刺史の王叡や南陽太守の張咨を殺害するなど傍若無人を極めていたが、袁術の配下に収まってからは陽人の戦いで董卓軍を破り、董卓の武将である華雄を討ち取り、洛陽を制圧するなど、目立つ活躍を見せた。

袁紹は董卓により擁立された長安の献帝に対抗すべく、幽州劉虞の擁立を計画したが、袁術はこれに強く反対している。劉虞自身も皇帝になるのを拒否している。

この頃、中国北部では韓馥から冀州を奪い取った袁紹と幽州に割拠する公孫?が対立し、中国中部では豫州荊州南陽郡で袁術とその配下になっていた孫堅が勢力を広げていた。中国南部では荊州で劉表が、益州では劉焉が勢力を拡大していた。

袁術の配下の孫堅は豫州刺史であったが、191年、袁紹は周昂(または周マ)を豫州刺史として派遣したので、孫堅と孫堅の主である袁術は周昂(または周マ)と豫州を奪い合うこととなった。これにより反董卓連合軍は完全に崩壊して袁術と袁紹の対立が激化し、それぞれ群雄と盟約を結び対抗した。袁紹と同盟したのが曹操・劉表・周?など、袁術と同盟したのが孫堅・公孫?・陶謙などである。

192年(191年、193年の説もある)、袁紹の意を受けた荊州の劉表が袁術の背後を襲い、袁術の命令で孫堅が劉表を攻めたが、劉表の部下の黄祖のために戦死した(襄陽の戦い)。孫堅の軍は孫賁が継いで袁術のもとに帰還した。

192年1月、董卓軍の牛輔李?張済に命じて、中牟で袁術派に寝返っていた朱儁を破らせ、?州陳留郡豫州潁川郡の諸県を攻略させ、李?・郭らは行く先々で略奪・殺戮・誘拐を行った。

董卓は銅貨の五銖銭を改鋳して貨幣価値を落としたため、経済混乱(インフレーション)を招いた。

192年4月、董卓は司徒王允と部下の呂布により殺された。董卓の勢力は部下の李?・郭らに引き継がれた。李?・郭らは王允・呂布を破り、献帝を手中に収め、後漢政府の事実上の統率者となったが、暴政を布いたので三輔は荒廃した。
曹操の台頭曹操192年群雄割拠図198年群雄割拠図

192年、曹操は?州となり、?州で青州から来た黄巾賊の兵30万人、非戦闘員100万人を自分の配下に納めて、急激に勢力を拡大した。

193年、袁術が正式な?州刺史金尚を伴って曹操の?州を攻めたが、青州兵を得て兵力が整っていた曹操に大敗し、さらに劉表に背後を絶たれたため、本拠地の南陽郡を捨て、揚州寿春に落ち延び、寿春を本拠地として割拠した。

193年、劉虞は公孫?を攻めるが、公孫?に敗れ、捕らえられて処刑された。

193年、曹操は父の曹嵩や弟の曹徳陶謙の配下が殺したとして、敵討ちのために徐州の陶謙を攻めて大勝したが、通過した地域で多くの人を虐殺した。

194年、陶謙は病に倒れ、先年の曹操の侵攻の際に自分への援軍に駆け付けた後に豫州刺史に推挙していた劉備に徐州を譲る意思を示した。劉備は陶謙が死去するとこれを受け入れた。

194年、曹操の親友の張?と部将の陳宮が呂布を迎え入れて、曹操に反逆し、曹操の領地である?州の大半は呂布のものとなった。しかし、曹操の部下の荀ケ夏侯惇程cらが曹操の本拠地を守り抜き、曹操は呂布との激戦の末に?州から呂布を駆逐し、?州を取り返した。呂布は徐州刺史の劉備を頼り、劉備の保護を受けた。

194年、馬騰・韓遂・劉焉らが長安の李?を攻めたが、樊稠・郭らに大敗した。

194年、劉焉は死去し、劉焉の子の劉璋が益州牧となった。

195年、袁術の庇護下にあった孫策は、父の孫堅の服喪が明けたため、袁術のもとに出仕して馬日?の上表により懐義校尉に任命され、江東へと進出して揚州刺史劉?を破った。また同時期に呉郡太守許貢を破り、呉郡・丹陽郡一帯に勢力を築いた。その後も孫策は揚州の諸勢力に勝利し、急速に勢力を拡大していった。

196年、呂布が徐州から劉備を追い出し、徐州を支配した。その後、劉備は呂布に攻められて敗走し、曹操のもとに身を寄せた。

196年、李?・郭らは内紛を起こし、献帝は楊奉らとともに東に逃亡して、洛陽に入った。

196年、曹操は荀ケ・董昭らの計略に従い、献帝を曹操の拠点であるに連れていった。曹操は献帝を道義的・政治的な後ろ盾として使い、政略を有利に進めていった。以後、許は許都と呼ばれる。196年、曹操は屯田制を開始している。

197年、袁術は皇帝を自称するが、このことで袁術は求心力を失い、部将の離反を招き、その勢力は急激に衰えていった。孫策はこれを契機に袁術からの独立を決意し、完全な自立勢力となった。

曹操は呂布・袁術などを滅ぼし、曹操に反逆した劉備を追い散らして河南から山東までの地域を統一する。一方、袁紹も公孫?を滅ぼして、河北山西を領有し、曹操と袁紹とがにらみ合う状態となった。両雄は200年の黄河南岸の白馬・官渡などで激突する(官渡の戦い)。序盤は曹操が袁紹の部将の顔良文醜を討ち取り、優位に立つ。しかし、曹操軍本隊と袁紹軍本隊の戦いで、兵力に勝る袁紹軍が勝利し、曹操は官渡の砦に篭城した。袁紹は豫州の諸郡に対し、味方になるよう誘いをかけ、曹操軍の後方に劉備らを派遣し、荒らし回らせると、曹操は本拠地の豫州の支配の維持さえ困難となり、窮地に陥った。しかし、袁紹軍から投降してきた許攸の計略を用いて、曹操が袁紹の兵糧庫を奇襲してこれを焼き払ったことをきっかけに、曹操の大勝利に終わり、中原での覇権を確固たるものとした。

202年、袁紹が病死すると、曹操はしばらくは袁紹の息子の袁譚袁尚らを滅ぼすことに費やし、黒山賊の張燕を降伏させ、袁氏に味方した袁紹の甥の高幹烏桓族を攻め下し、袁紹の旧勢力を吸収した曹操は圧倒的な大勢力となり、南下に乗り出す。
三国鼎立へ三国時代・要図(262年):.mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  魏  蜀漢  呉

208年、曹操が南征を開始すると、荊州劉表は死去した。荊州では劉表の後継者争いが起こっており、長男の劉gを支持する側と、次男の劉jを支持する側に分かれていたが、優勢であった劉jが荊州に就いた。荊州では曹操軍が到来したと知ると、劉jは王粲の勧めもあり曹操に帰順した。曹操は新野の劉備を攻めようとした。しかし、劉備軍はいち早く撤退したので曹操は軽騎をもって追撃し、当陽県長坂でこれを大いに撃破した。だが、劉備軍の被害はいたって少なく、彼らは江東の孫権と同盟して曹操軍と対峙するに至った。周瑜は部将黄蓋の進言を採用して、佯降を偽装して接近に成功した黄蓋が、曹操軍の船団に火を放つと忽ち燃え広がり。曹操軍を火計で破った(赤壁の戦い)。周瑜が劉備と再度合流して追走すると、曹操は曹仁徐晃を江陵の守備に、楽進を襄陽の守備に残し、自らは北方へ撤退した(「呉主伝」)。

戦後、劉備は劉表の長男の劉gを上表して荊州刺史に擁立、荊州南部の武陵・長沙・桂陽・零陵の四郡を併合し、徐州を追い出されて以来、初めて確固たる基盤を得た。敗れた曹操は北へ引き返して、以後は南征を控えて華北の経営と軍事力の回復を中心に行うことになる。孫権は劉備とともに荊州を攻め取った。孫権は南郡を獲得した、劉備は武陵・長沙・桂陽・零陵の大部分を獲得した。ほどなくして劉gが死去したため、劉備自ら荊州牧となった。その後、劉備は京城で孫権と会見し、赤壁から荊州争奪戦で獲得した領地の領有権について話した。周瑜を失った呉は「劉備と協調して曹操に対抗すべきだ」という魯粛の提案により、孫権は劉備に荊州の数郡を貸し与えることとし、劉備は南郡・武陵・長沙・桂陽・零陵の荊州南部の五郡を領有することとなった。

210年、孫権は交州刺史の歩?を派遣して、交州の実質的な支配者である士燮を服属させた。

この頃、曹操は長江周辺を孫権に奪われるのを恐れて、長江周辺の住民を北方に移住させようとした。だが、強制移住を嫌がった長江周辺の十数万人の住民が、長江を渡って江東(呉)に移住した。

西の雍州・涼州には多くの族が住み、豪族たちが割拠していたが、韓遂と馬騰馬超親子が彼らの盟主であった。曹操の部下の鍾?張既は韓遂・馬騰・馬超を後漢と曹操に服属させた。しかし、211年、韓遂・馬超ら豪族連合は曹操に対して反逆し、東征し、潼関まで進出したが、曹操に大敗した(潼関の戦い)。その後、曹操軍の夏侯淵らが韓遂・馬超ら雍州・涼州の豪族の勢力を壊滅させ、雍州・涼州を平定した。


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