三国志_(歴史書)
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また、20世紀に発見された写本としては以下のものがある。

虞翻陸績張温伝残巻 - 1920年代にトルファン市出土との伝。影印は早くから流通しており、中華書局版『三国志』(1959年)の巻頭にも書影があるが、原写本は所在不明[4]

虞翻伝残巻 - 20世紀初に敦煌某寺で出土との伝。10行、100余字が残る。台東区立書道博物館所蔵。重要文化財

歩?伝残巻 - 20世紀初に莫高窟で発見された敦煌文献の一つ。25行、440余字が残る。

韋曜華覈伝残巻 - 1909年にトルファン市火焔山トユクの土中から出土。24行、590余字が残る。台東区立書道博物館所蔵。重要文化財。

呉主伝残巻 - 1965年にトルファン市の仏塔から発見された。40行、570字が残る[5]

臧洪伝残巻 - 1965年にトルファン市の仏塔から発見された。21行、370余字が残る。

構成

紀伝体の歴史書であり、「魏志(魏書)」30巻(「本紀」4巻、「列伝」26巻)、「蜀志(蜀書)」15巻、「呉志(呉書)」20巻の計65巻から成る。この他、陳寿の自序(序文)が付されていたといわれるが、現存しない。また、表(年表)や(天文・礼楽などの記録)は存在しない。[6]

それぞれ『魏国志』『蜀国志』『呉国志』として、独立した書物としても扱われていたという[7]。『魏国志』『蜀国志』『呉国志』の書かれた前後関係は不明である。三国の記述を独立させ、合わせて『三国志』としたところに本書の特徴がある。また、単に『国志』とも呼ばれていた[8]

のみに本紀が設けられているので、三国のうち魏を正統としているものと判断されている。他の魏を正統とした類書では、『魏書』など魏単独の表題とし、蜀(蜀漢)は独立した扱いを受けていない。また、西晋東晋十六国時代を扱った『晋書』でも、北の諸国家(十六国)はほとんど「載記」(地方の覇者の伝記)として扱われ、やはり独立した扱いを受けていない。南北朝時代北魏を正統とした『魏書』(魏国志とは別)では、南朝宋などの皇帝の伝記が、やはり「島夷」として列伝に入れられ、独立した扱いを受けていない[注 1]。こうしたことから、魏・蜀・呉をそれぞれ独立した扱いをしている本書は、魏を純粋な正統と意図した歴史書であるとは言い切れない[注 2]。その一方で、漢の正統としての蜀にも大いに配慮をしていることは、多くの日本・中国の研究者が従来から指摘している。「蜀志」の末尾には本伝の補足として楊戯の『季漢輔臣賛』を全文収載している。これについて、銭大マ『三国志弁疑序』では「楊戯伝に『季漢輔臣賛』を載せて数百言も費やしたのは、魏・呉よりも蜀を尊んだものである。季漢(末っ子の漢)という言葉を残したのは、蜀が漢王朝を継承していることを明らかにしたものだ」として、蜀の遺臣である陳寿の故国顕彰の表れであるとしている。呉末期の記述については、旧呉関係者に取材したり[9]、あるいは人物評で旧呉の薛瑩胡沖の言葉を載せている箇所がある[10]

また、『三国志』には、魏に朝貢した異民族の記事は存在するものの、蜀や呉に朝貢していたと思われる異民族については、伝が立てられていないという指摘がある[注 3]。これらは、『三国志』が当時のことを遺漏なく記した史書であるかどうかの疑問を提示するものでもある。当初から魏を正統として編纂したとみる日本の研究者の中には、蜀・呉はあくまでも地方政権としての扱いなので書けなかったとする意見もあるが[注 4]、編纂意図として魏を正統としていたかは前述のように定かでない。

日本に関する記事としては、「魏志」烏丸鮮卑東夷伝に邪馬台国についての記述がある。日本では、この部分(魏書東夷伝倭人条)を「魏志倭人伝」と通称している。
裴松之の注

陳寿は『三国志』を記述するにあたって信憑性の薄い史料を排除したために、『三国志』は非常に簡潔な内容になっていた[注 5]。そこで、南朝宋文帝裴松之に注を作ることを命じ、裴松之は作成した注を、元嘉6年(429年)に上表とともに提出した。注の量はかなり多く、古くは、陳寿の本文に数倍すると見られていた。[11]しかし、近年の研究で陳寿の本文とほぼ同じ字数であることが判明した。[12]

裴松之の注の特徴は、訓詁の注といわれる言葉の意味や読み、典故などを説明するものは少なく、陳寿の触れなかった異説や詳細な事実関係を収録した点である。陳寿の『三国志』編纂後の出来事も補われている[注 6]。すでに失われた書物からの引用も多く、貴重な史料である。また、話としては面白いが信憑性に欠ける逸話も数多く収録されており、説話の題材にも取り入れられていった。これらの逸話の多くは敵対する呉の匿名の人物が曹操の悪口を書いたものが多く、曹操が董卓暗殺に失敗して逃げ帰る途中で口封じに世話になった友人を殺す話や、曹操の部下が献帝の皇后を殺す話、漢朝の官吏を騙して皆殺しにする話の元ネタは殆どが呉の匿名の人物が書いた『曹瞞伝』などの野史であり、その多くが信憑性に乏しい。[13]このことから裴松之の注の史料価値はかなり低く見られており、後世の学者から「三国志において陳寿が書かず、裴松之の注にのみ残るものは全てカスである。陳寿の本文をよく読まず、裴松之の注釈を鵜呑みにして軽がろしい議論をするのは最も良くないことだ」(元の馬端臨『文献通考』)[14]とか「陳寿は大義に依って異端を削った」(隋の王通『文中子』)と言われている。

裴松之の注釈のうち最も著名なものの一つは、倭人に関するものであり、「魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀(魏略に曰く、その俗は正歳四節を知らず、但だ春耕秋収を計算して、年紀と為す。


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