三国干渉
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4月23日東京駐在のロシア帝国ドイツ帝国フランス共和国の3国の公使が外務省を訪れ、病気のため兵庫県舞子に静養中だった陸奥外相に代わり、それに応接した林董外務次官に対し、日本の遼東半島領有は東アジアの平和を乱すものとして、遼東還付を勧告する覚書を手渡した[1][4][6][7][8]。これが、いわゆる「三国干渉」である[1][4][7]。日本の遼東半島永久占領を自国の南下政策にとって脅威とみたロシアが、同盟国フランスを誘い、ドイツをも巻き込んでの干渉であったが、以後10年間、ドイツはロシアの極東進出を支持する路線を保持した[4][7][8]。ロシアはまた、武力行使も辞さない強硬さを示した[4][8]

こうした干渉に対し、首相伊藤博文は列国会議開催による処理を提案した。4月24日、日本政府は広島御前会議をひらき、列国会議を召集してこの問題を処理する方針を決定した[1][8]。しかし、舞子で静養中の陸奥はこれには断固反対した[1][6]。陸奥は、会議によってさらなる干渉を招く恐れを主張し、イギリスアメリカ合衆国イタリア王国など他の列強の協力で勧告を牽制し、撤回させようと目論んだ。当時の日本陸海軍の実力では列強3国を相手にしてかなうはずがなかった[1][4][8]。当初、日本政府はイギリスに期待した[1]。また、そのように期待するのにも理由があった[1]。というのも、ロシアとのグレート・ゲームにおいて清国が強力な防波堤であるようにみえたとき、イギリスは親清的であったが、その清に勝利した日本はいっそう強力な防波堤であることが今や明らかとなったわけであるから、相当に親日的になりつつあったからである[1][6]。しかし、イギリスとしても独仏露3国との関係を悪化させてまで日本に肩入れするのは不可能であった[1][8]4月29日、イギリス外相のキンバーリー伯爵は駐英日本公使の加藤高明に対し、この件についてイギリスは日本に援助できない旨を伝えた[1][6]。この前日28日には、ドイツ皇帝が日本の台頭を警戒しロシア皇帝に黄禍論を提言[9]。英米が局外中立を宣言した。

窮地に立たされた伊藤博文らが最も恐れたのは、清国が講和条約の批准を拒否することであった[4][8]。日本政府は、「三国に対しては遂に全然譲歩せざるを得ざるに至るも、清国に対しては一歩も譲らざるべし」という苦渋の決断を下し、旅順口を除く遼東半島放棄の意向を伝えた[4][8]。しかし、ロシアはそれに応じようとせず、清国もまた三国干渉を理由に批准書交換の延期を申し入れてきたのである[4][6]。打開策のない日本政府は、5月4日の閣議で全遼東半島の放棄を決め、翌5月5日、独仏露の駐日公使に通告した[1][4][8]

5月8日、予定していた芝罘で批准書の交換がなされ、講和条約が発効した[2][3][5]。清国では各地で批准拒否運動が起こった[5]。5月10日、日本は遼東半島を清に還付[9]

遼東半島還付にともなう代償金問題はその後、清国・ロシア・ドイツ・フランス4か国との交渉を経て、10月7日に決着し、11月8日に日清両国は改めて北京で遼東還付条約を結んだ[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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