三公
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王莽が舜の後裔を自任したことと関係しているとみられる[9]
後漢

後漢以降は司徒・太尉・司空と名を改められた。和帝は三公が承天安民の策を行っていないと叱咤している例[10]桓帝の太尉である楊秉が三公は故事によれば「統べざる所無き官」であると帝に説明している例[11]から、当時の三公は国政に関する政策全般を統括する官であった。

後漢末に実権を握った曹操が208年に丞相と御史大夫を復活させて自らが丞相に就任した際に三公を廃止してしまった[12]
それ以後

の成立後には三公が復活していたものの、実権を尚書などに奪われ長老の名誉職と化していたらしく、『魏志高柔伝には「三公を月二回参内させるほか天下の事件について意見を聴取するよう改めるべき」という上書が引用されている。高柔本人ものちに三公になったが、そのとき73歳であった。やがて三省六部の制が整えられるに及んで三公は完全に名誉職となり、時代によっては再び太師・太傅・太保の3官職が三公とされることもあった。
日本

日本では、律令制における太政官の長である太政大臣左大臣右大臣のことを指す。のちに右大臣の下に内大臣が置かれると、常任の官ではない太政大臣を外して、左大臣・右大臣・内大臣のことを指す例もあらわれたが、江戸時代禁中並公家諸法度が制定されると内大臣を含まず太政大臣を含むものと定義付けられた。源実朝の歌集が『金槐和歌集』と称されるのは、彼が三公(三槐)のひとつである右大臣であったことにちなむものである。

ほか、朝鮮半島では、高麗のときに「大衛」「大司徒」「大司空」が設置され、李氏朝鮮では領議政左議政右議政議政府を構成した「三政丞」が三公に該当する。
脚注^ a b 古文尚書、今文尚書については、書経の項目を参照されたい。
^ 新釈漢文大系『大戴礼記』「保傅」、145 - 146頁。
^ a b c 『漢書』巻19上、百官公卿表第7上。『『漢書』百官公卿表訳注』2 - 3頁。
^ a b c 『書経』「周官」。新釈漢文大系『書経』下、497 - 498頁。
^ 『漢書』巻10、成帝紀第10、綏和元年4月。ちくま学芸文庫『漢書』1の321頁。
^ 『漢書』巻11、哀帝紀第11、建平2年3月。ちくま学芸文庫『漢書』1の336頁。
^ 『漢書』巻11、哀帝紀第11、元寿2年5月。ちくま学芸文庫『漢書』1の341頁。
^ 吉野賢一「前漢末における三公制の形成について」、47頁。
^ 吉野賢一「前漢末における三公制の形成について」。
^ 『後漢書』巻4和帝紀・永元12年条
^ 『後漢紀』巻22桓帝紀・延熹7年条
^ 渡邉将智『後漢政治制度の研究』(早稲田大学出版部、2014年) ISBN 978-4-657-14701-1 第三章「〈三公形骸化説〉の再検討」

参考文献

中央研究院・歴史語言研究所「漢籍電子文献資料庫
」。

司馬遷著、『史記

小竹文夫小竹武夫訳『史記』1から8、筑摩書房、ちくま学芸文庫、1995年。


班固著、『漢書

小竹武夫訳『漢書』1から8、筑摩書房、ちくま学芸文庫、1998年。

大庭脩監修、漢書百官公卿表研究会『『漢書』百官公卿表訳注』、朋友書店、2014年。


戴徳著、『大戴礼記

栗原圭介『大戴礼記』、新釈漢文大系113、明治書院、1991年。


吉野賢一「前漢末における三公制の形成について」、『九州大学東洋史論集』33巻、2005年。

関連項目

前漢丞相、相国、大司徒の一覧

後漢相国、丞相の一覧

三少:三公の直下の位。三孤ともいう。


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