三井高利
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着想は高利の母・殊法の夢想によるものと伝えられ、丸は天、井桁は地、三は人を表し、「天地人」の三才を意味している。「丸に井桁三」がいつから用いられてきたか、正確な年月は不明だが、延宝5年(1677年)高利が56歳のころではないかとされている。
三井両替店 幕府為替御用方

店舗を駿河町に移転後に両替商を開業すると同時に、貞享3年(1686年)には仕入れ店のある京都にも両替店を開く[32]。後述の公金為替業の請負人となってからは、大阪にも両替店を設けた[33]

当時、上方は銀建て、江戸は金建てだったため、大きな呉服商は常に為替相場に気を使っており、両替商を兼業する者も多かった[34]。この時代には既に為替手形による送金が用いられており、商人の間では上方と江戸間で現金輸送されることはなかった[35]。これは両替商による為替手形の現金化が必要なことを意味し、商売の規模が大きくなると両替手数料は巨額になる。また、この時代の貨幣制度は複雑で、金・銀・銭の3つが通用していただけでなく、それらの交換レートは日々変わっていた[36]。したがって、釣銭を用意するにしてもその都度両替商に手数料を払って交換してもらう必要があった[36]。そこで、自前で経営するほうが得であると考えた高利は両替商を始めた[37]。つまり、始めた当時は両替商は呉服業の補助的な商売だったのである[36]。しかし、次第に両替商の規模は大きくなり、呉服業よりも両替業の方が主体になっていった。

幕府は西日本の直轄領から取れる年貢米や重要産物を大阪で販売して現金に換え、それを江戸へ現金輸送していた。しかし、現金輸送には人件費がかかるほか、危険も多かった。そこで、これに代わる方法として、高利が幕府に為替の仕組みを献策したと言われている[38]。ただし、これを裏付ける確実な資料は残っていない[38]。この献策が、御側用人だった牧野成貞(常陸国笠間城主)の理解を得たために、元禄4年(1691年)、幕府から大阪御金蔵銀御為替御用を命ぜられたと推測されている[39]。こうして大阪に江戸両替店を出店させ、三井両替店は幕府の為替御用方としての地位を確立する。また、幕府御用達の商人になったことに伴い、営業妨害も影を潜めた。

この公金為替は幕府の大阪御用金蔵から公金を受け取り、これを60日(後に90日ないし150日に改定される)後に江戸城に納めるもので[40]、三井では大阪で委託された額を越後屋の売り上げから納めた。公金に手数料はつかなかったが、納付までの間は無利息で運用することが出来た[41]。また、不渡りになった場合、幕府は訴訟の際に特別に保護を与えていたので、公金為替の請負業者の利益は莫大なものだった[38]。この為替御用方は明治維新で幕府が倒れるまで続き、後の三井銀行(現在の三井住友銀行)の母体になる。

なお、江戸で成功を収めた高利だが、28歳で松阪へ帰郷して以来、再び江戸に下ったという正式な記録は残っていない。越後屋開店に伴い高利が江戸に足を運んだかは定かではないが、松阪の地にあって、息子たちに指示を出していたものと思われる。江戸の店の実務は主に長男高平らに任せていた。

貞享3年(1686年)、高利は、65歳になって居所を京都に移し[42]、元禄7年(1694年)5月6日に73歳で死去した[43]。元禄6年(1693年)に病床についてからは仏教信仰の世界に入っていた[44]。高利はその遺言により故郷の松阪ではなく、京都の真正極楽寺(真如堂)に葬られた[45]

高利一代で築いた財産は7万両以上といわれている。江戸時代の商人には2つのタイプがあり、投機的で豪奢な生活を好み遊郭などで豪遊し、一方で仁義をわきまえるタイプの商人と、享楽を排除、貨幣商品経済を信奉し営利の追求にのみ邁進する商人である[46]。高利は明らかに後者のタイプに属するが、それは時として極端な吝嗇の域にまで達している[47]。そして、巨額の利益のうち一部でも社会事業の役に立てようと出費した例は、高利の言行にはついぞ見られなかった[48]

高利は長男の高平はじめ息子達や娘夫婦等に数家を創設させており、遺産はそこで共有するものとした。これが江戸期の豪商、後に財閥当主となる三井家である。

2022年(令和4年)は三井高利の生誕400年、2023年(令和5年)は三井越後屋創業350年にあたることから松阪市では記念事業を実施する[49]
家憲

高利は子孫のために家訓を残している。

一、単木は折れやすく、林木は折れ難し。汝等相協戮輯睦(きょうりくしゅうぼく)して家運の鞏固を図れ。

二、各家の
営業より生ずる総収入は必ず一定の積み立て金を引去りたる後、はじめてこれを各家に分配すべし。

三、各家の内より一人の年長者を挙げ、老八分としてこれを全体の総理たらしめ、各家主はこの命にしたがうべし。

四、同族は、決して相争う事勿れ。

五、固く奢侈を禁ず。

六、名将の下に弱卒なし、賢者能者を登用するに意を用いよ。下に不平怨嗟の声なからしむる様注意すべし。

七、主は凡て一家の事、上下大小の区別無く、これに通暁する事に心掛けるべし。

八、同族の小児は一定の年限内に於いては、番頭手代の下に労役せしめ、決して主人たるの待遇をなさしめざるべし。

九、商売は見切り時の大切なるを覚悟すべし。

十、長崎に出でて、夷国と商売取引すべし。

三井十一家

1691年(元禄4年)、高利は三井家の結束を図るため、長男・高平を総領家とする本家筋の直系男子と養子筋の連家を定めた。後に高平が制定した家憲「宗竺遺書」で、6本家(北・伊皿子・新町・室町・南・小石川)と3連家(松阪・永坂町・小野田)の9家を三井一族とした。家名はそれぞれの三井家が居住する町名にちなんで呼ばれた。連家は享保・元文期に2家(家原・長井)が加わり、6本家5連家の三井十一家体制とされた。江戸時代の「三井十一家」は次のようなものであった。

家 名家系注釈
北家高利の長男・高平の家系。惣領家。


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