三井銀行
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同ビルは太陽神戸三井銀行発足後、九段の新社屋へ本店営業部と本社を移転させたことに伴い東京営業部となり、三井住友銀行発足後の2001年4月から2010年10月までの間は本店営業部・三井住友フィナンシャルグループ本社等が入居していた。2010年10月に丸の内の旧日本鋼管本社ビル跡に建設された三井住友銀行本店ビルディング(ビルの所有者は三井不動産)へ転出。
歴史
江戸時代-三井両替店

1694年(元禄7年)設立のイングランド銀行に先んずること11年、三井家江戸駿河町越後屋三井両替店を創業したのは1683年(天和3年)である[2]。当時、大きな呉服屋には為替送金の便宜などから両替業を兼営するものが少なくなかった。越後屋三井呉服店が盛大になるに伴い、上方への送金も多額にのぼり、そのために両替屋へ支払う手数料も増加した。更に当時の貨幣制度のもとでは、三貨が日々の相場をもって流通しており、貨幣の取り扱いも煩雑で両替屋の手をわずらわすことが多くなった。呉服店の駿河町移転を期として両替店を創立したのは、兼業体制を明確化することによって、この弱点を是正するためであった。こうして三井両替店は越後屋のための補助機関として発足したのであった。1686年(貞享3年)三井高利京都において全事業を統括する必要から、京都両替店を開設した。呉服店の補助機関として設けられた両替店が飛躍的に発展したのは1691年(元禄4年)、幕府の大阪御金蔵銀御為替御用を務めてからである。すなわち、幕府が大阪で御金蔵の金銀を両替商に渡し、両替商は大阪の問屋から江戸向け逆為替を買い、この為替手形を江戸へ送り、江戸の問屋から代金を取り立て、これを幕府に上納するというのが御為替御用の仕組みであった。またこのときに同族企業組織の採用を行い、大元方の創立と「宗竺遺書」と呼ばれる家憲の制定を行った。
明治維新後

幕府御用を務め、王政復古の発令を経て維新政府の為替方となった三井組は、最初に大蔵省の前身となる金穀出納所御用達を受諾。そして御為替方三井組を称するようになった。三井は政府の殖産資金創出策にタイアップして活躍し、銀行業者としての貴重な体験を得た。為替会社の設立がそれである。通商・為替会社はまず東京で設立され、ついで大阪横浜西京京都)・大津神戸新潟敦賀に設けられ、重要な地位に就いた。
第一国立銀行創立兜町の第一国立銀行。通称「三井組ハウス」

三井が最初に銀行設立を出願したのは1871年(明治4年)7月だった。三野村利左衛門が「為換座三井惣頭八郎右衛門名代」として大蔵省あてに提出した「新貨幣銀行願書」がそれである。三井家が銀行設立を企図した背景には政府の推奨もあった。政府は三井組を新貨幣為換方に任命するに際し、「真成之銀行」を設立するよう指示した。当時大量の政府紙幣の整理方法として吉田清成などはイギリス流の中央銀行を創設しようとする考え方が強力であった。三井はその具体化であったにもかかわらず、朝議は突如一変し、大蔵省は三井組に対する銀行認可を取り消すに至った。三井は「三井札」の発行や呉服業の分離を進めていたにもかかわらず、アメリカ出張中の伊藤博文の強い主張にもとづき、アメリカ流の国立銀行制度を採用したためである。三井は小野組と共に三井小野組合銀行第一国立銀行の前身)設立への出資をおこなったが、同時に銀行の単独営業への動きを強めた。
私盟会社三井銀行創立

家政改革を進め官金取引業務と府県為替方の拡充に努めた三井は、小野組島田組の破産後も難局を乗り切る。1875年(明治8年)3月、三井組を「三井バンク」と改称し、三井八郎右衛門高福らを発起人とし、創立出願を東京府知事あてに提出した。当時の銀行条例では国立銀行以外に「銀行」と称することを禁止していたが、国立銀行が第一第二第四・第五の四行に留まっていたことなどから抜本的改正を余儀なくされ、1876年(明治9年)、駿河町三井洋館に日本最初の私立銀行が設立された。各地に店舗を展開し、分店をランク付けした。一等は大阪、二等は西京横浜神戸である。

三井銀行は地租の納税窓口を担当していたため、1876年(明治9年)に地租改正反対を訴える伊勢暴動の際には、三重県松阪山田(現・伊勢市)の店舗や取締の自宅を焼き討ちにされた[3][4]四日市でも攻撃目標とされたが、何とか放火を阻止した[5]
日本銀行の設立

三野村利左衛門の病死についで三井銀行を襲った衝撃は、日本銀行の設立と官金取引業務の縮小であった。すなわち1881年(明治14年)松方正義大蔵卿に就任し幣制整理とインフレーションの収束に着手したが、その中核をなしたのは日本銀行の創立であった。そして国庫金取引は日銀の重要業務の一つと定められ、これまで三井が行ってきた為替方は全廃されることになった。また日銀創立に際し、三井銀行の総長代理副長三野村利助が同行理事に任命された。そして三井は消極主義になって節約をはかり、貸出金の回収に努めた。その結果1883年(明治16年)から17年にかけての民間預金は1000余円減の横ばい、官金預かり高は94万余円の激減に対して、所有公債証書時価は74万余円と相当の増加を示した。
近代銀行の基礎確立旧三井銀行小樽支店

明治20年代前半までに設立されていた銀行、三井銀行、安田銀行第一銀行十五銀行などは公金預金に依存しており、その優位性を保っていたのが実情であり、反面、特定個人や会社に対する不良貸出も多く、業態はまことに不安定であった。そのような実情のもとで、政府はようやく1893年(明治26年)に銀行条例を公布し施行した。問題は貸付業務の制約と兼業の禁止が規定されていなかったことで、「諸銀行の中には、日銀より引出したる資金を、一個人に向いて比較的高利に貸付け、其差金の収益のみを以て目的とするもの」(日本銀行沿革提要)すら出てきたというのが実情であった。中上川彦次郎は三井の改革に着手し「三井家仮評議会」を設置、中井三平(中井三郎兵衛 (3代))益田孝、三野村利助、今井友五郎、渋沢栄一など共に不良貸付の整理を断行。次いで官金取扱の辞退、業務組織の整備、有能な人材登用、工業の育成に着手。日清戦争後のブーム期には、「三井銀行は日本の銀行なればなり。天下の銀行なればなり。」と述べるほど強大であった。中上川は銀行の経営について当初はフィナンシングハウス的なものを考え、その後、企業の育成と銀行業が両立することを認めるに至った。
株式会社化 - 五大銀行体制三井銀行本店。1900年代

日清戦争後、1897年(明治30年)開業の日本勧業銀行1900年(明治33年)には農工銀行北海道拓殖銀行1902年(明治35年)には日本興業銀行と、特殊銀行の設立が行われ、国立銀行の普通銀行への転換がすすめられるなど、貨幣・金融制度の整備が著しい進展を見せた。一方で急激な膨張による反動も強く、早川千吉郎は工業育成主義から各製糸所・紡績所の売却、芝浦製作所の分離、有価証券・地所の処分などを実施、徹底した採算主義にもとづく商業銀行への転換をおこなった。

日露戦争後は日本興業銀行の活躍による外資導入、南満州鉄道株式会社などが刺激材料となって、再び企業熱が勃興し、東株(東京証券取引所)は三倍もの値をつけ、日本経済が飛躍的に発展する中で、三井銀行も大きな力を蓄えた。外国の事情をレポートした林健は、ロスチャイルドモルガン等に習った組織改革、三井銀行を株式会社組織にすることを提案。


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