1980年には、前年(1979年)に放送を開始したテレビアニメ『ドラえもん』(第2作)とのタイアップを行い、缶入りにドラえもんのデザインを施したり、瓶入りには「ドラえもんグラス」がもらえるプレゼントを行った(バヤリースも同じ)。アニメとのタイアップはこの後も、1982年に『Dr.スランプ アラレちゃん』、『忍者ハットリくん』、1984年に『パーマン』(第2作)と続いた。
1984年に発売100周年を迎えて缶やペットボトル[注釈 9]に記されている「MITSUYA CIDER」が現在の書体で青色に変更されて現在に至る。1995年までは「Asahi」ロゴは側面部分に「by Asahi」と表示していたが、1996年のアサヒ飲料発足を機に「MITSUYA CIDER」の上に「Asahi」が表示された。
1988年に製造部門が分社化されてアサヒビール飲料製造株式会社となり、1996年に販売会社のアサヒビール飲料株式会社と合併してアサヒ飲料株式会社となる。
2004年に香料を天然原料のものに、水を天然水100%に変えて一層すっきりした味に仕上げて売上数量が増加し、業績不振から一転してV字回復した。近年流行の微炭酸へ移行することもなくキリンレモンと並び強炭酸を維持するなどして根強いファンを持つ。
2009年5月26日に「カロリーゼロ、糖質ゼロ、保存料ゼロ」の「三ツ矢サイダー オールゼロ」を全国で発売した。カロリーゼロ、糖質ゼロ商品は126年間で初めてである[注釈 10]。同商品はアルミ缶商品で250mlと300ml、ペットボトルで500mlと1,500mlの2タイプ計4種類を販売する。2015年3月24日のリニューアルで『三ツ矢サイダー ゼロ』に改名し、2016年3月22日のリニューアルで『三ツ矢サイダー ゼロストロング』に再改名した。
源泉の自噴量が少なくなったことにより、発祥の地である平野工場は1954年に閉鎖され、アサヒビール系列のホームセンター・サンシャイン平野店になったが2005年3月に閉店した[注釈 11]。1912年に建設された大正天皇御料品製造所はこのホームセンターの奥で三ツ矢資料館になっていたが、サンシャインの閉店とともに公開が中断された。
2016年、アサヒ飲料の環境方針の下、一部製品(1.5Lボトル4万箱)に植物由来の原料を使用したオールバイオペットボトルの採用を開始した[8]。
2017年6月15日、国際味覚審査機構(iTQi)による優秀味覚賞を受賞[9][10]。
2018年3月からは「カルピスウォーター」と共に、ダイドードリンコが管理する自動販売機への供給を開始している(自動販売機用の430mlペットボトルのみ)[11]。
2019年1月にプラスチック資源循環や海洋プラスチック問題の対策において、持続可能な容器包装の実現に向けた目標として「容器包装2030」を策定。プラスチック製容器包装の重量削減を目指している。[12]
沿革
1884年 - 「平野水」発売。
1899年 - 「三ツ矢印」を商標登録。
1905年 - 三ツ矢平野鉱泉合資会社設立。
1907年
2月20日 - 三ツ矢平野鉱泉合資会社と合資会社孔雀商会が合併し、帝国鉱泉株式会社設立。
6月 - 「三ツ矢印平野シャンペンサイダー」発売。
1909年 - 「三ツ矢シャンペンサイダー」発売。
1912年 - 皇室及び各宮家へ御料品を納品するため、御料品製造所建築。
1916年 - 「三ツ矢サイダー」を商標登録。
1918年 - 大阪朝日新聞に三ツ矢サイダーと平野水の「中元贈答用」広告が出る。
1925年 -「三ツ矢レモラ」(初代)発売。
1952年 - 「全糖三ツ矢シャンペンサイダー」発売。
1954年 - 鉄道弘済会用に「三ツ矢サイダー」びん200ml発売。
1967年 - 「三ツ矢レモラ」(2代目)発売。
1968年 - 「三ツ矢シャンペンサイダー」を「三ツ矢サイダー」に改称。
1970年 - 「三ツ矢サイダー SILVER」瓶200ml発売。
1971年 - 「三ツ矢サイダー シルバー」缶250ml発売。
1973年 - 「三ツ矢フルーツソーダ グレープフルーツ」発売。
1974年 - 「三ツ矢フルーツソーダ グレープ」「三ツ矢フルーツソーダ プラム」発売。
1981年10月 - 缶コーヒー「三ツ矢コーヒー」発売。
1985年 - 「三ツ矢サイダー」PET1.5L発売。
1996年6月 - 「三ツ矢サイダー」PET500ml発売。
2009年 - 「三ツ矢サイダー オールゼロ」発売(後に「三ツ矢サイダー ゼロ」→「三ツ矢サイダー ゼロストロング」に改称)。
2021年 - 「三ツ矢レモラ」(3代目)発売。
名前の由来三ツ矢記念館
(川西市平野 2002年10月撮影)
2019年3月28日、源泉地室と共に川西市の文化遺産第一号となる[2]。
平安時代中期、摂津源氏の祖源満仲が住吉大社の神託に従い三つ矢羽根の矢を放ち、矢の落ちた多田(現在の兵庫県川西市多田)に居城(新田城、多田城)を建てた伝説による。満仲はこの矢を探すのに功労が大きかった孫八郎という男性に、領地と「三ツ矢」の姓と三本の矢羽の紋を与えた。満仲はある日鷹狩りに出かけた際、偶然居城近くの塩川の谷間で、一羽の鷹が湧き出ている水で足の傷を治して飛び立つのを目撃した。この湧水が霊泉としてあがめられ、付近の住民がこの天然鉱泉を入浴として利用し、明治初年頃まで「平野温泉郷」として存続した。