万葉集
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完本では鎌倉時代後期と推定される西本願寺本万葉集がもっとも古い[6]

和歌の原点である万葉集は、時代を超えて読み継がれながら後世の作品にも影響を与えており(一例「菟原処女の伝説」)、日本文学における第一級の史料であるが[1]方言による歌もいくつか収録されており、さらにその中には詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても重要な史料である。

日本の元号令和」は、この万葉集の「巻五 梅花の歌三十二首并せて序」の一節を典拠とし、記録が明確なものとしては日本史上初めて元号の出典が漢籍でなく日本の古典となった[7][8]
成立
書名の由来

『万葉集』の名前の意味についてはいくつかの説が提唱されている。ひとつは「万の言の葉」を集めたとする説で、「多くの言の葉=歌を集めたもの」と解するものである。これは古来仙覚賀茂真淵らに支持されてきた。仙覚の『万葉集註釈』では、『古今和歌集』の「仮名序」に、やまとうたは人の心をたねとしてよろづのことのはとぞなれりける

とあるのを引いている。ただし、『古今集』の成立は『万葉集』よりも時代が下るため、この語釈が『万葉集』成立後にできあがったものという可能性も否定できず、そのまま『万葉集』の由来としてあてはめることには疑問もある。

そのほかにも、「末永く伝えられるべき歌集」(契沖[9]鹿持雅澄)とする説、葉をそのまま木の葉と解して「木の葉をもって歌にたとえた」とする説などがある。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}研究者の間で主流になっているのは、『古事記』の序文に「後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲ふ」とあるように、「葉」を「世」の意味にとり、「万世にまで末永く伝えられるべき歌集」ととる考え方である[要出典][誰によって?]。

なお、「万葉(萬葉)」という言葉は、当時において『万葉集』以外では用いられている事例はほとんど見られず、早い事例として、延暦25年(大同元年・806年)4月16日に五百枝王平城天皇に対して臣籍降下と春原朝臣の賜姓を願い出た際の上表文に「榮宗枝於萬葉」という句が見られるのが挙げられる(『日本後紀』)。なお、この五百枝王を『万葉集』を今日知られる形にした最終的な編者に充てる説があり(後述)、この上表文も五百枝王が『万葉集』の編纂及び表題決定に何らかの関与をした状況証拠とする研究者もいる[10][11]
編者と成立年代百人一首の札。持統天皇の歌「春すぎて夏来(き)にけらし白妙(しろたへ)の」と書かれている。歌の出典は万葉集であり、万葉集では「春過ぎて 夏来たるらし 白妙の」となっている。なお、下の句は「衣ほしたり 天の香具山」である。

『万葉集』の成立に関しては詳しくわかっておらず、勅撰説、橘諸兄編纂説、大伴家持編纂説など古来種々の説があるが、現在では家持編纂説が最有力である。ただ、『万葉集』は一人の編者によってまとめられたのではなく、巻によって編者が異なるが、家持の手によって二十巻に最終的にまとめられたとするのが妥当とされている。

『万葉集』二十巻としてまとめられた年代や巻ごとの成立年代について明記されたものは一切ないが、おおむね以下の順に増補されたと推定されている。
巻1の前半部分(1 -53番)…原・万葉集…各天皇を「天皇」と表記。万葉集の原型ともいうべき存在。持統天皇柿本人麻呂が関与したことが推測されている。

巻1の後半部分+巻2増補…2巻本万葉集持統天皇を「太上天皇」、文武天皇を「大行天皇」と表記。元明天皇の在位期を現在としている。元明天皇太安万侶が関与したことが推測されている。

巻3 - 巻15+巻16の一部増補…15巻本万葉集契沖が万葉集は巻1 - 16で一度完成し、その後巻17 - 20が増補されたという万葉集二度撰説を唱えて以来、この問題に関しては数多くの議論がなされてきたが、巻15までしか目録が存在しない古写本(「元暦校本」「尼崎本」など)の存在や先行資料の引用の仕方、部立による分類の有無など、万葉集が巻16と17の間で分かれるという考え方を裏付ける史料も多い。元正天皇、市原王、大伴家持大伴坂上郎女らが関与したことが推測されている。

残巻増補…20巻本万葉集延暦2年(783年)ごろに大伴家持の手により完成したとされている。

ただし、この『万葉集』は延暦2年以降に、すぐに公に認知されるものとはならなかった。延暦4年(785年)、家持の死後すぐに大伴継人らによる藤原種継暗殺事件があり家持も連座したためである。その意味では、『万葉集』という歌集の編纂事業は平城天皇即位後の恩赦により家持の罪が許された延暦25年(806年大同元年)以降にようやく完成したのではないかと推測されている。『古今和歌集』真名序には「昔平城天子、詔侍臣令撰万葉集」という言葉が載せられているのも、最終的な完成が家持の赦免後であったという事情を反映した記述とみられている[12][13]。ただし、その場合には家持に代わって遺稿を完成形にして公の認知を得た"編者"が存在していたことも考えられるが、その"編者"として名前が挙がっているのは五百枝王(臣籍降下後は春原五百枝)である[10][14][11]。五百枝王は編纂への関与が指摘される市原王の子で、藤原種継暗殺事件で家持との親交から自らも連座していること、現存の記録から確認できる「万葉」の語の初期の使用者(前述)であることが理由に挙げられるが、現時点ではいずれも状況証拠に過ぎず、今後"編者"の存在の有無も含めて検討すべき要素が多い。

「万葉集」は平安中期より前の文献には登場しない。この理由については「延暦4年の事件で家持の家財が没収された。その中に家持の歌集があり、それを契機に本が世に出、やがて写本が書かれて有名になって、平安中期のころから『万葉集』が史料にみえるようになった」とする説[15] などがある。
諸本と刊本

この節の加筆が望まれています。

万葉集の諸本は大きく分けて、「古点本」「次点本」「新点本」に分類できる。この区分は鎌倉の学僧仙覚によるもので、点とは万葉集の漢字本文に附された訓のことをさす。その訓が附された時代によって、古・次・新に分類したのである。古点とは、天暦5年(951年)に梨壺の五人の附訓で、万葉歌の9割にあたる4000以上の歌が訓をつけられた。確実な古点本は現存していないが、武田祐吉小川靖彦によって桂本が古点の一部を存しているという見解が示されている。ほかに久松潜一は藍紙本も古点を伝えるとの見解を示している。古点と伝える資料としては、古今和歌六帖など、平安時代中期の歌集に引用された万葉歌がそれにあたるとの見方も山田孝雄や上田英夫らによって提示されたことがあるが、現在ではあまり有力視されていない。

ともあれ、古点とは梨壺の5人による一回的な作業の結果であるが、次点本は古点以降新点以前の広い時代の成果を指し、藤原道長、大江佐国、大江匡房、惟宗孝言、源国実、源師頼藤原基俊、藤原敦隆、藤原仲実、藤原清輔藤原長忠顕昭など、複数の人物が加点者として比定されている。この次点本に属す現存諸本としては、嘉暦伝承本、元暦校本、金澤本、類聚古集、廣瀬本などが現存しているが、いずれも零本であり、完本は伝わらない。このうち、廣瀬本は藤原定家校訂の冷泉本定家系万葉集と認められる。1993年(平成5年)に関西大学教授の木下正俊・神堀忍に発見され、所蔵者である広瀬捨三(元同大学教授)の名をとって廣瀬本と称される。ただし、廣瀬本の奥書には甲府町年寄春日昌預1751年 - 1836年、山本金右衛門)や本居宣長門弟の国学者萩原元克1749年 - 1805年)といった甲斐国の国学者たちによる校訂の痕跡を示す文言があり、賀茂真淵の『万葉考』に依拠した本文や訓の訂正も行われている。

新点本は仙覚校訂した諸本を指し、大きく寛元本系統と文永本系統に分かれる。寛元本系統の諸本は伝わらないが、上田英夫の考証によって神宮文庫本がもっとも寛元本の様態を留める本であることが確かめられている。また橋本進吉田中大士によって、紀州本の巻10までが寛元本に近い本ではないかと推測されている。西本願寺本巻1の奥書によれば、寛元本は源実朝本(鎌倉右大臣本)など数種の古写本を校合し、さらに仙覚自身の案も加えて校訂した本とみられる。

文永本に関しては、最古の完本である西本願寺本をはじめ学習院大学本、陽明文庫本など揃いの諸本が多く、特に西本願寺本がもっとも多くの歌数をとどめていることから、現在万葉集のテキストを編む場合、必ずと言っていいほど底本として利用されている。

なお、近年出現した広瀬本万葉集については、項目を別に改めて付加して概述される必要がある。
古点本

本節は特記以外は『日本古典文学大辞典』岩波書店、「万葉集」の項目(執筆者は林勉)による。
桂本

皇室御物。平安時代中期の書写と推定されており、現存する最古の写本である。


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