万葉集
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近現代には国語国文学の観点から万葉研究が行われ、斎藤茂吉折口信夫[注 7]佐佐木信綱土屋文明(以上4名は自身も歌人であり、歌人の立場から万葉論を展開した)、澤瀉久孝武田祐吉五味智英犬養孝伊藤博稲岡耕二青木生子阿蘇瑞枝橋本達雄中西進多田一臣森朝男古橋信孝、身崎壽、坂本信幸神野志隆光佐竹昭広曾倉岑内藤明梶川信行上野誠小川靖彦鴻巣隼雄、鉄野昌弘、藤井貞和品田悦一三浦佑之らにより万葉集について研究されている。外国語への翻訳としてはケネス・ヤスダによる英語訳がある。
仙覚

仙覚は1203年建仁3年)、常陸国の生まれで、7歳ごろに万葉集の研究を志したという。40歳のころには鎌倉に住み、鎌倉将軍九条頼経の知遇を得ていた。1243年(寛元元年)、頼経が歌人で源氏物語学者の源親行に万葉集の校訂を下命した。仙覚は1245年(寛元3年)か1246年(寛元4年)にこの校訂作業に加わり、親行が書写した写本を底本としてほかの6種類の写本と校合を行って、1247年(寛元5年)2月に完成させた。これが「仙覚寛元本萬葉集」ないし「寛元本」と呼ばれているものである。ただし、後述の文永本とも仙覚の校訂本の原本は散佚している。

寛元本は「傍訓形式」をとっている。すなわち、歌の漢字本文の傍らにカタカナで訓、つまり読み下し文を書き入れた。同時に仙覚は万葉集の歌のすべてに訓を施し、1253年建長5年)に新たに訓を施した152首を記した書と、万葉集の用字について論じた「奏覧状」の二書を後嵯峨院に献上している。

この縁で仙覚は、後嵯峨院とその子息の鎌倉将軍宗尊親王らの支援を受けることになり、さらに5種類の写本の閲覧が可能になった。そこで、1261年弘長元年)に今回は仙覚単独で万葉集の校訂作業を再開した。

この校訂で1265年(文永2年)9月に完成したのが「仙覚文永二年本萬葉集」で、ただちに宗尊親王に献上された。また、翌年8月に新たな写本を完成させた、これが西本願寺本の祖本である「文永三年本」である。その後も校訂を続け、文永十年本の系統の写本が残っている。

万葉集研究者は文永三年本とその後の校訂本をあわせて「文永本」と呼んでいる。文永本の大きな特徴は傍訓の色分けである。従来の訓は黒、仙覚が改めた訓は紺青、新たに施した訓は朱で記されている[21]
万葉集に由来する名前

万葉線 - 富山県高岡市と射水市を結ぶ路面電車の路線、およびその運行事業者

万葉まほろば線 - 奈良県内を走る西日本旅客鉄道の鉄道路線、桜井線の愛称

万葉あかね線 - 滋賀県内を走る近江鉄道の鉄道路線、八日市線の愛称

万葉 (フェリー) - 九州商船が運航するフェリー

万葉ステークス - 日本中央競馬会 (JRA) が京都競馬場の芝3000メートルで施行する国際競走

万葉の岬 - 兵庫県相生市の岬、金ヶ崎の別名

脚注[脚注の使い方]
注釈^平仮名」や「片仮名」の成立以前だったため、例えば、助詞などは音が同じ漢字を当てるなどして表記した(万葉仮名)。[2]
^ 万葉集の詠み人は天皇貴族から下級官人防人大道芸人などさまざまな身分人々と考えられてきているが、品田悦一(東京大学教授)によれば、今日ではほぼ全ての研究者から否定されているという[5][要検証ノート]。
^ 第16巻には一首の仏足石歌も収録されている(国歌大観3884番歌)。
^ 今の長野県静岡県から関東地方東北地方南部まで含まれる。
^ 旋頭歌の一つ。
^ 李寧煕は日本で育った在日韓国人であり、韓国在住の韓国人から事実認識の誤りが指摘されている。
^ 日本で最初に万葉集の全口語訳をした[30]

出典^ a b c d e f g h i j k 万葉集 2001
^ 「源氏物語の和歌 (コレクション日本歌人選) 」風間書院、2011年8月5日
^ 菅野 2006
^ 「おわりに――『万葉集』は言葉の文化財」(上野 2017, pp. 212?220)
^ 品田悦一「万葉集はこれまでどう読まれてきたか、これからどう読まれていくだろうか。」(東京大学教養学部編『知のフィールドガイド分断された時代を生きる』白水社、2017年8月)
^ 伊藤博『図説 日本の古典2 萬葉集』堀内末男、1978年4月4日、28頁。 
^ a b 『元号を改める政令及び元号の読み方に関する内閣告示について』(HTML)(プレスリリース)内閣総理大臣官邸、2019年4月1日。https://www.kantei.go.jp/jp/tyoukanpress/201904/1_a.html。2019年4月1日閲覧。 
^ “新元号は「令和」 出典は「万葉集」|平成から令和へ 新時代の幕開け”. NHK NEWS WEB. 2020年12月29日閲覧。
^ 佐佐木信綱 編「万葉代匠記」『契沖全集』 1巻、朝日新聞社、1926年、5頁。doi:10.11501/979062。 
^ a b 安田喜代門『万葉集の正しい姿』(私家版、1970年)P130.
^ a b 木本好信「志貴皇子系諸王と『萬葉集』の成立」『奈良平安時代史の諸問題』和泉書房、2021年(原論文:『龍谷大学日本古代史論集』3号、2020年)2021年、P95-104.
^ 伊藤博『萬葉集釋注』十一(集英社、1998年)P248.
^ 朝比奈英夫『大伴家持研究-表現手法と歌巻編纂-』(塙書房、2019年)P243-249.
^ 大森亮尚「志貴家の人々-五百枝王の生涯と万葉集成立をめぐって-」(『山手国文論攷』6号、1984年)
^ 上田正昭(京都大学名誉教授)
^ “万葉集巻第九残巻(藍紙本)”. 国指定文化財等データベース. 文化庁. 2024年1月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年1月9日閲覧。
^ “国宝 元暦校本万葉集”. 東京国立博物館. 2019年10月14日閲覧。
^ 『皇室の名宝日本美の華』(展覧会図録)、東京国立博物館、2009、p.183
^ “万葉集巻第十五残巻(天治本)”. 国指定文化財等データベース. 文化庁. 2024年1月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。


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