こうした外国語との関係は金田一春彦も「万葉集の謎は英語でも解ける」と批判している[29]。 近世には学芸文化の興隆から万葉集研究を行う国学者が現れ、契沖、荷田春満、賀茂真淵、加藤千蔭、田安宗武、鹿持雅澄、長瀬真幸、本居宣長らが万葉集研究を展開した。 近現代には国語や国文学の観点から万葉研究が行われ、斎藤茂吉、折口信夫[注 7]、佐佐木信綱、土屋文明(以上4名は自身も歌人であり、歌人の立場から万葉論を展開した)、澤瀉久孝、武田祐吉、五味智英、犬養孝、伊藤博、稲岡耕二、青木生子、阿蘇瑞枝、橋本達雄、中西進、多田一臣、森朝男、古橋信孝、身崎壽 仙覚は1203年(建仁3年)、常陸国の生まれで、7歳ごろに万葉集の研究を志したという。40歳のころには鎌倉に住み、鎌倉将軍九条頼経の知遇を得ていた。1243年(寛元元年)、頼経が歌人で源氏物語学者の源親行に万葉集の校訂を下命した。仙覚は1245年(寛元3年)か1246年(寛元4年)にこの校訂作業に加わり、親行が書写した写本を底本としてほかの6種類の写本と校合を行って、1247年(寛元5年)2月に完成させた。これが「仙覚寛元本萬葉集」ないし「寛元本」と呼ばれているものである。ただし、後述の文永本とも仙覚の校訂本の原本は散佚している。 寛元本は「傍訓形式」をとっている。すなわち、歌の漢字本文の傍らにカタカナで訓、つまり読み下し文を書き入れた。同時に仙覚は万葉集の歌のすべてに訓を施し、1253年(建長5年)に新たに訓を施した152首を記した書と、万葉集の用字について論じた「奏覧状」の二書を後嵯峨院に献上している。 この縁で仙覚は、後嵯峨院とその子息の鎌倉将軍宗尊親王らの支援を受けることになり、さらに5種類の写本の閲覧が可能になった。そこで、1261年(弘長元年)に今回は仙覚単独で万葉集の校訂作業を再開した。 この校訂で1265年(文永2年)9月に完成したのが「仙覚文永二年本萬葉集」で、ただちに宗尊親王に献上された。また、翌年8月に新たな写本を完成させた、これが西本願寺本の祖本である「文永三年本」である。その後も校訂を続け、文永十年本の系統の写本が残っている。 万葉集研究者は文永三年本とその後の校訂本をあわせて「文永本」と呼んでいる。文永本の大きな特徴は傍訓の色分けである。従来の訓は黒、仙覚が改めた訓は紺青、新たに施した訓は朱で記されている[21]。
研究史
仙覚
万葉集に由来する名前
万葉線 - 富山県高岡市と射水市を結ぶ路面電車の路線、およびその運行事業者
万葉まほろば線 - 奈良県内を走る西日本旅客鉄道の鉄道路線、桜井線の愛称
万葉あかね線 - 滋賀県内を走る近江鉄道の鉄道路線、八日市線の愛称
万葉 (フェリー) - 九州商船が運航するフェリー
万葉ステークス - 日本中央競馬会 (JRA) が京都競馬場の芝3000メートルで施行する国際競走
万葉の岬 - 兵庫県相生市の岬、金ヶ崎の別名
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 「平仮名」や「片仮名」の成立以前だったため、例えば、助詞などは音が同じ漢字を当てるなどして表記した(万葉仮名)。[2]
^ 万葉集の詠み人は天皇、貴族から下級官人、防人、大道芸人などさまざまな身分の人々と考えられてきているが、品田悦一(東京大学教授)によれば、今日ではほぼ全ての研究者から否定されているという[5][要検証 – ノート]。