万葉集
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東歌は東国地方[注 4]の歌の意で、東国に伝わる歌を収集し、どの国の歌か判明している歌(勘国歌。90首+5首)と不明の歌(未勘国歌。140首+3首)に二分して収録している。多くの歌で上代の東国方言が多用されており、歌の成立年代や作者の出自、記録の経緯が一切不明という問題点はあるにしても、古代の方言の具体的な記録として重要な位置を占める。また、分量の豊富さも魅力である。

詠まれてから時が経ち過ぎている、知識がなかった昭和時代の文献が幅を利かせすぎているため、間違った解釈もあり、その後の日本語、歴史に影響している。

防人歌は東国から徴集された防人の詠んだ歌の意で、巻13や巻14にも少量見えるが、もっとも著名なのは巻20に「天平勝宝七歳乙未二月、相替遣筑紫諸国防人等歌」として84首収録されているものである。これは天平勝宝7歳(755年)に徴集された防人の詠んだ歌を、防人を率いてきた各国の部領使(ことりづかい)に命じて記録、上進させたもので、拙劣歌として半数近く(82首)が棄てられてはいるものの、採用された歌については作者の名前から出身国(国によっては郡名まで)まで逐一記されている。しかも、万葉集に採録するにあたって、内容はもちろん万葉仮名表記に至るまで上進時のままで改変されていない可能性が高く、東国方言史料としての価値は東歌を凌駕するものと評価されている。

以下に東歌と防人歌から1首ずつ挙げる。

昼解けば 解けなへ紐の 我が背(せ)なに 相寄るとかも 夜解けやすけ(巻14・3483番)
(昼間解くと解けない紐が、夫に会うからというのか、夜は解けやすいことだ。)比流等家波 等家奈敝比毛乃 和賀西奈尓 阿比与流等可毛 欲流等家也須家

草枕 旅の丸寝の 紐絶えば 我(あ)が手と付けろ これの針(はる)持(も)し(巻20・4420番)
(旅の丸寝をして紐が切れたら、自分の手でおつけなさいよ、この針でもって。)久佐麻久良 多妣乃麻流祢乃 比毛多要婆 安我弖等都氣呂 許礼乃波流母志

上記の歌を見てもわかるように、『万葉集』に記録された東国方言には、現代の東日本方言と相通じるものが少なくない。中でも否定の助動詞「?なふ」や命令形語尾「?ろ」は、現代東日本方言の「?ない」「?ろ」に連なる可能性が指摘されている。また、東国方言の四段動詞と形容詞の連体形は、「立と月」「愛(かな)しけ妹(いも)」のように中央語とは異なる独特の語形を取るが、八丈島で話される八丈方言は「書こ時」「高け山」のように、上代東国方言と同様の語形をとることで知られている。日本語に方言は数あれど、このような活用を残すのは八丈方言など少数である。
日本古来の物語の原型説

万葉集は『竹取物語』や『浦島太郎』などの古典文学へ影響を及ぼしているとする説があり、巻16「由縁ある雑歌」には竹取翁と天女が登場する長歌があり、内容は竹取翁の「別伝」的なもので異なる内容ではあるが、『竹取物語』(かぐや姫物語)の源流のひとつととらえられるものとして関連が指摘されている[23]。巻9の高橋虫麻呂作の長歌に『浦島太郎』の原型とも解釈できる内容の「浦島伝説」が歌われている[1]。ただ、「浦島伝説」は日本書紀の雄略記でも、捕らえた大亀が女に変り、妻にして蓬?山に行く内容のものがある[1]

万葉集の「菟原処女の伝説」は、『大和物語』の「生田川伝説」や、謡曲『求塚』、森?外の『生田川』に翻案されている[1]。また、『源氏物語』でも、宇治川に身投げする浮舟匂宮の2人の男性に愛される女性)が登場している[1]
元号(令和)

明仁天皇譲位による改元で2019年4月1日午前11時41分に内閣官房長官菅義偉が記者会見を執り行って発表され、皇太子徳仁親王践祚にともなって同年5月1日から施行される元号「令和」の典拠となった。「巻五 梅花の歌三十二首并せて序」の「初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす」から引用した[7]。これまで日本の元号の出典は漢籍であったが、初めて日本の古典からの出典となった。内閣総理大臣安倍晋三は元号発表にともなって開いた記者会見にて、新元号について「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ。梅の花のように、日本人が明日への希望を咲かせる」という思いを込めたものであることを語った[24]

「令和」の典拠となった「巻五 梅花の歌三十二首并せて序」は、天平2年(730年)の正月13日に、大宰帥大伴旅人邸の梅園に山上憶良や下僚ら約30人が集まり催された「梅花の宴」の宴席で詠まれた32首(また後日6首が唱和された)の序文である[1]。現代訳では、「…時は良き新春正月、外気は快く風は和らいで、梅は佳人の鏡台の白粉のように白く咲き、蘭は香袋のように香っている。…」という意味である[1]。花を愛で、などの花びらを杯に浮べ飲むことは、長寿祈願の習わしであったが、万葉当時の花見は、桃や梅などの中国伝来の花を見るのが一般的であったという[1]
諸点
巻頭と巻末の歌

『万葉集』は全巻で20巻であるが、その巻頭の歌が雄略天皇の歌で始まり、大伴家持の歌で締めくくられている。奈良時代の人々においても雄略天皇が特別な天皇として意識されていたことを示す。

大泊瀬稚武(おほはつせのわかたけ)天皇の御製歌(おほみうた)籠(こも)よ み籠(こ)持ち掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち この岳(をか)に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家告(の)らせ 名告(の)らさね そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて われこそ居(を)れ しきなべて われこそ座(ま)せ われにこそは 告(の)らめ 家をも名をも(巻1・1番)篭毛與 美篭母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家告閑 名告紗根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師吉名倍手 吾己曽座 我許背齒 告目 家呼毛名雄母巻末 新(あらた)しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いや重(し)け吉事(よごと)
捕鯨

万葉集には「いさな(鯨魚)」を詠んだ歌が詠われているが、いさなとは鯨魚、鯨名、勇魚、不知魚、伊佐魚とも表記していて、おもに鯨類を指す。そして「いさなとり」は、捕鯨を意味し主に海、浦、浜、灘などを表す枕詞として使われていた。

巻 二「いさな取り」 淡海の海を 沖さけて こぎくる船 辺附きて こぎ来る船 沖つ櫂 いたくな撥ねそ 邊つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の つまの 思ふ鳥立つ


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