1964年、国立台湾大学政治学部の教授であった彭明敏は、「台湾自救運動宣言(中国語版)」を発表した。この中で、3,000人あまりの国民大会代表のうち台湾から選ばれた者は十数名にすぎず、473人の立法委員のうち台湾から選ばれた者はわずか6名であり、?介石政権が台湾の人民を代表しているのだろうか、と疑問を呈した。1978年、後に民主進歩党主席を務める施明徳は、許一文のペンネームで党外運動雑誌『這一代』に寄せた原稿の中で、「万年国会」という言葉を用いた。これを契機に、長年にわたって改選されていない国会を批判する言葉として、「万年国会」という言葉が党外運動活動家たちの間で使われるようになった。後に民進党所属で立法委員となった朱高正(中国語版)は、『論語』(憲問第十四)にある「幼にして孫弟ならず、長じて述ぶることなく、老いて死せざる、是れを賊となす(中国語: 幼而不?悌,?而无述焉,老而不死,是??)」を引き合いに出し、万年国会の議員らを「老賊(中国語版)」と非難した。
この間、民意の代表者である国民大会代表と立法委員については、台湾の人口増加と欠員に伴い、議席の追加が行われた。1966年3月22日に公布された改正後の動員戡乱時期臨時条款では、これらの増員に係る選挙の定めが追加され、1969年に国民大会代表と立法委員の増員分の選挙が行われた。さらに1972年3月23日に公布された改正後の動員戡乱時期臨時条款では、増員された議員らにのみ任期を定め、第1期の議員との明確な違いを設けたため、第1期の議員らは相変わらず改選されなかった。 1989年1月26日、第1期の立法委員と国民大会代表らに引退を促す「第一期資深中央民意代表依願退職条例(繁体字中国語: 第?屆資深中央?意代表?願退職條例)」が立法院で可決された。しかし、中国国民党の外省人ベテラン議員らは、引き続き立法院をコントロールしたいと考え、本省人国民党議員や民主進歩党議員らと対立した。この時期、一部の民進党立法委員と外省人国民党立法委員との乱闘がしばしば発生した。 1990年3月、多くの大学生が中正紀念堂前に集まり抗議活動を行った(三月学運)。学生たちは、万年国会の議員である国民大会代表による投票で総統が選ばれることにも抗議した。この選挙で総統となった李登輝は、三月学運の代表者たちの意見を受け入れ、中華民国憲法の修正を進めた。司法院大法官会議も同年6月21日に新たな解釈を行い、第1期の議員らの職権行使を1991年12月31日までに終わらせるとともに、次期議員の選挙を行うよう政府に求め、1959年の解釈を修正した[3]。その後、1991年5月1日に動員戡乱時期臨時条款は廃止されて中華民国憲法増修条文が公布・施行され、同年12月には第2期国民大会代表を選ぶ選挙
万年国会の解消
翌1992年5月28日に公布された中華民国憲法増修条文に基づき、監察委員の選出は、選挙による方式から、総統が指名し国民大会の同意により任命する方式に改められた[4]。さらに同年12月には立法委員選挙が行われ、立法委員全員が改選された。これによって「万年国会」は名実ともに過去のものとなった。 民意機関法定任期民意代表就任日退任日実際の任期会期末注釈
万年国会の会期
国民大会6年第1期国民大会代表
立法院3年第1期立法委員(中国語版)1948年5月8日1991年12月31日43年7ヶ月1993年1月31日第6次増額立法委員(1989年選出)は任期満了まで活動
監察院6年第1期監察委員(中国語版)1948年6月4日1991年12月31日43年6ヶ月1993年1月31日第3次増額監察委員(中国語版)(1987年選出)は任期満了まで活動
脚注[脚注の使い方]^ a b c “ ⇒萬年國會” (中国語). 中華民国文化部. 2020年5月16日閲覧。
^ “釋字第31號解釋” (中国語). 司法院大法官. 2020年5月16日閲覧。
^ “釋字第261號解釋” (中国語). 司法院大法官. 2020年5月16日閲覧。
^ その後、2000年4月25日に公布された中華民国憲法増修条文により、「総統が指名し立法院が同意する」に改められている。
関連項目
立法院 (中華民国)
監察院
国民大会