万世一系
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江戸時代、尊皇家は天皇への尊崇と支持を高めるため、皇室の大変な古さと不変性を強調した。

軍学者山鹿素行は寛文9年(1669年)に著わした『中朝事実』で下のように論じている[16]山鹿素行ひとたび打ち立てられた皇統は、かぎりない世代にわたって、変わることなく継承されるのである。……天地創造の時代から最初の人皇登場までにおよそ二〇〇万年が経ち、最初の人皇から今日までに二三〇〇年が経ったにもかかわらず……皇統は一度も変わらなかった。 ? 山鹿素行、『中朝事実』

とはいえ、江戸時代の知識人全員が、太古的な古さという主張に賛成したわけではない。経世家本多利明は寛政10年(1798年)の論考のなかでこう説いている。「世界最古の国はエジプトで6000年の歴史を有し、中国も3800年の歴史を主張しうるのにたいし、神武天皇即位からは1500年しか経っていないのだから、日本の歴史はずっと短い」。1500年というこの年代は、近代の学者が示唆する3世紀末に驚くほど近いと、ドナルド・キーンは指摘している[17]
明治時代福澤諭吉新渡戸稲造

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明治時代の多くの知識人は、皇室の永続性という大原則を受け入れ、誇りとしていた。福澤諭吉も、皇室の永続性は近代化を推進する要素だと見なしていた。1875年(明治8年)に執筆した『文明論之概略』の「西洋の文明を目的とす」の一節にて、以下の持論を展開している。わが国の皇統は国体とともに連綿(れんめん)として外国に比類なし。……君[と]国[との]並立の国体といいて可なり。しかりといえども……これを墨守(ぼくしゅ)してしりぞくは、これを活用して進むにしかず。……君国並立の貴(とうと)き由縁(ゆえん)は、古来わが国に固有なるがゆえに貴きにあらず。これを維持してわが政権をたもち、わが文明を進むべきがゆえに貴きなり。 ? 福澤諭吉、『文明論之概略』

ただ、国の紀元についての原則は、その信奉を強制されていたわけではない。新渡戸稲造(1862-1933)は国際連盟の事務局長の職にあったとき、日本国外でだが、公式の場で紀元の正確さにはっきりと疑問を呈している[注 6]スウェーデンの首都・ストックホルムで開かれた日本・スウェーデン協会の会合の際、演説のなかで次のように述べた[19]。本邦最初期の歴史編纂者たちは、八世紀におこなわれていた中国風の年代計算法を採用したがために、干支の六十年周期をおよそ一〇回分数えまちがったと思われる[注 6]。このため、本邦の歴史の始まりは六〇〇年ほどさかのぼらされた。……本邦初期の歴史から六世紀を差し引くなら、日本帝国の創建は、通常受け入れられている前六六〇年ではなくして……前六〇年ということになる。こうすれば、神武天皇はジュリアス・シーザーと同時代人ということになる。 ? 新渡戸稲造、(日本・スウェーデン協会の会合の演説より)
戦前

万世一系は、戦前において、共和制共産主義革命を否定する根拠とされた。また、日本は君民一体の国柄で、他国のように臣下や他民族が皇位を簒奪することがなく、臣民は常に天皇を尊崇してきたとする歴史観を形成した。さらに、日本は神の子孫を戴く神州であり、延いては世界でも優れた道義国家であるとする発想を生んだ。戦前には、国粋主義と結びついて皇国史観という歴史観を形成した。特に、明治維新から戦中までの期間には、国家公認の史観として重視され、大日本帝国憲法第1条にも記載されていた。

北一輝は自筆の『国体論及び純正社会主義』にて、「日本国民は万世一系の一語に頭蓋骨を殴打されことごとく白痴となる」と万世一系を批判した。この著書は刊行後すぐに発禁処分を受けた。「国体」および「神国」も参照
戦後昭和天皇明仁上皇

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万世一系はもはや公式のセオリーとはされなくなったが、公式の場での談話や発言からは消えなかった。1977年(昭和52年)8月、那須御用邸での記者会見にて、昭和天皇は次のような説明をした[21]。国体というものが、日本の皇室は昔から国民の信頼によって万世一系を保っていたのであります。 ? 昭和天皇、(1977年(昭和52年)8月、那須御用邸での記者会見)

日本国憲法は、天皇の祖先たちへの言及も、王朝の古代史的な古さへの言及もしていない。しかし、皇室の法的地位は、皇位の世襲の原則を再確認することで是認された。1966年(昭和41年)、王朝の起点である2月11日のまま、戦後廃止された「紀元節」がほぼ同義の「建国記念の日」として復活した。

1990年(平成2年)、明仁親王が天皇に即位した。即位にあたり、祖先および神々とのきずなを強調する上代からの儀式、「大嘗祭」が執り行われた。1999年(平成11年)、皇統を褒め称える「君が代」も、国旗国歌法により日本の国歌として確定された。
万世一系がうたわれた実例
大日本帝国憲法詳細は「大日本帝国憲法」を参照

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1889年(明治22年)、近代国家の憲法として大日本帝国憲法が公布された。この憲法では、皇室の永続性が皇室の正統性の証拠であることを強調していた。『告文』(憲法前文)には、以下のような文章がある。…天壤無窮ノ宏謨(こうぼ)ニ循(したが)ヒ惟神(かんながら)ノ宝祚ヲ承継シ… ? 『大日本帝国憲法』告文輝かしき祖先たちの徳の力により、はるかな昔から代々絶えることなくひと筋に受け継がれてきた皇位にのぼった朕は…

そして、憲法第1条にて「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と規定されたのである。近代的な政治文書で「万世一系」のような詩的な文言がもちいられたのは、これが初めてである。「万世一系」のフレーズは公式のイデオロギーの中心となった。学校や兵舎でも、公式な告知や発表文でも、広く使われて周知されていった。
君が代詳細は「君が代」を参照

[23]

1880年(明治13年)、日本の国歌として『君が代』が採用された。君が代は10世紀に紀友則紀貫之凡河内躬恒壬生忠岑の4人の選者により編纂された『古今和歌集』に収録されている短歌の一つである。バジル・ホール・チェンバレンはこの日本の国歌を翻訳した。日本の国歌の歌詞とチェンバレンの訳を以下に引用する[24]君が代の楽譜君が代は

千代に八千代に
さざれ石の
巌(いわお)となりて
苔(こけ)のむすまで ? 君が代チェンバレン

汝(なんじ)の治世が幸せな数千年であるように
われらが主よ、治めつづけたまえ、今は小石であるものが
時代を経て、あつまりて大いなる岩となり
神さびたその側面に苔が生(は)える日まで

A thousand years of happy life be thine!
 Live on, my Lord, till what are pebbles now,
 By age united, to great rocks shall grow,
 Whose venerable sides the moss doth line.

日本の国歌も「天皇の治世」を奉祝する歌であり[25][26]、皇統の永続性(万世一系)がテーマである[27]。世界で最も短い国歌が世界で最も長命な王朝を称えている[28]
国体の本義詳細は「国体の本義」を参照

国体の本義とは、1938年(昭和13年)、「日本とはどのような国か」を明らかにしようとするために、当時の文部省が学者たちを結集して編纂した書物である。万世一系についての主張を以下に引用する[29]。大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いてゐる。而してそれは、国家の発展と共に弥々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇国の事事の中に、この大本が如何に生き輝いてゐるかを知らねばならぬ。 ? 国体の本義
その他の「万世一系」論

朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ萬世一系ノ帝位ヲ踐ミ朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ……(大日本帝国憲法発布の詔勅)


大日本國皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ繼承ス(
旧皇室典範第一条)


天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)。

詔勅や外交文書の冒頭では、このように「天皇」に対する修飾語として用いられることもあった。


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