万世一系
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日本側でも、北畠親房の『神皇正統記』では以下のように論じている[10][11]北畠親房モロコシ(中国)は、なうての動乱の国でもある。…伏羲(前3308年に治世を始めたとされる伝説上最初の中国の帝王。)の時代からこれまでに三六もの王朝を数え、さまざまな筆舌に尽くしがたい動乱が起こってきた。ひとりわが国においてのみ、天地の始めより今日まで、皇統は不可侵のままである。 ? 北畠親房、『神皇正統記』
ヨーロッパ

[12]

16 - 17世紀ヨーロッパ人も、万世一系の皇統とその異例な古さという観念は知られていた。日本建国の日付を西暦に計算しなおして紀元前660年としたのは、ヨーロッパ人である。

スペインのフィリピン臨時総督ドン・ロドリーゴ・デ・ビベロは『ドン・ロドリゴ日本見聞録』に、日本人について以下のように記述している[13]。彼らのある種の伝承・記録から知られるのは…神武天皇という名の最初の国王が君主制を始め、統治をおこないだしたのは、主キリスト生誕に先立つこと六六三年も前、ローマ創建から八九年後だということである。日本がまことにユニークな点は、ほぼ二二六〇年のあいだ、同じ王家の血統を引く者一〇八世代にもわたってあとを継いできたことである。 ? ドン・ロドリーゴ・デ・ビベロ、『ドン・ロドリゴ日本見聞録』

当時の天皇は後水尾天皇で、皇統譜によれば108代目にあたる。

貿易商人ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロン1615年日本から以下のように報告している[13]。彼らのもろもろの文書やきわめて古い書物は、最初の日本国王である神武天皇がその治世を始めたのは二二七〇年以上も昔だと明言している。 ? ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロン、(日本からの報告)


エンゲルベルト・ケンペルは『日本誌』で以下のように説明している[14]エンゲルベルト・ケンペル“宗教的世襲皇帝”の王朝は、キリスト以前の六六〇年がその始まりである。…この年からキリスト紀元一六九三年にいたるあいだ、すべて同じ一族に属する一一四人の皇帝たちがあいついで日本の帝位についた。彼らは、日本人の国のもっとも神聖な創建者である「テンショウダイシン」(天照大神、あまてらすおおみかみ)の一族の最古の分枝であり、彼の最初に生まれた皇子の直系である等々のことを、きわめて誇りに思っている。 ? エンゲルベルト・ケンペル、『日本誌』

さらに、歴代天皇の名前と略伝を日本語文献のとおりに列記している。
江戸時代

[15]

江戸時代、尊皇家は天皇への尊崇と支持を高めるため、皇室の大変な古さと不変性を強調した。

軍学者山鹿素行は寛文9年(1669年)に著わした『中朝事実』で下のように論じている[16]山鹿素行ひとたび打ち立てられた皇統は、かぎりない世代にわたって、変わることなく継承されるのである。……天地創造の時代から最初の人皇登場までにおよそ二〇〇万年が経ち、最初の人皇から今日までに二三〇〇年が経ったにもかかわらず……皇統は一度も変わらなかった。 ? 山鹿素行、『中朝事実』

とはいえ、江戸時代の知識人全員が、太古的な古さという主張に賛成したわけではない。経世家本多利明は寛政10年(1798年)の論考のなかでこう説いている。「世界最古の国はエジプトで6000年の歴史を有し、中国も3800年の歴史を主張しうるのにたいし、神武天皇即位からは1500年しか経っていないのだから、日本の歴史はずっと短い」。1500年というこの年代は、近代の学者が示唆する3世紀末に驚くほど近いと、ドナルド・キーンは指摘している[17]
明治時代福澤諭吉新渡戸稲造

[18]

明治時代の多くの知識人は、皇室の永続性という大原則を受け入れ、誇りとしていた。福澤諭吉も、皇室の永続性は近代化を推進する要素だと見なしていた。1875年(明治8年)に執筆した『文明論之概略』の「西洋の文明を目的とす」の一節にて、以下の持論を展開している。わが国の皇統は国体とともに連綿(れんめん)として外国に比類なし。……君[と]国[との]並立の国体といいて可なり。しかりといえども……これを墨守(ぼくしゅ)してしりぞくは、これを活用して進むにしかず。……君国並立の貴(とうと)き由縁(ゆえん)は、古来わが国に固有なるがゆえに貴きにあらず。これを維持してわが政権をたもち、わが文明を進むべきがゆえに貴きなり。 ? 福澤諭吉、『文明論之概略』

ただ、国の紀元についての原則は、その信奉を強制されていたわけではない。新渡戸稲造(1862-1933)は国際連盟の事務局長の職にあったとき、日本国外でだが、公式の場で紀元の正確さにはっきりと疑問を呈している[注 6]スウェーデンの首都・ストックホルムで開かれた日本・スウェーデン協会の会合の際、演説のなかで次のように述べた[19]。本邦最初期の歴史編纂者たちは、八世紀におこなわれていた中国風の年代計算法を採用したがために、干支の六十年周期をおよそ一〇回分数えまちがったと思われる[注 6]。このため、本邦の歴史の始まりは六〇〇年ほどさかのぼらされた。……本邦初期の歴史から六世紀を差し引くなら、日本帝国の創建は、通常受け入れられている前六六〇年ではなくして……前六〇年ということになる。こうすれば、神武天皇はジュリアス・シーザーと同時代人ということになる。 ? 新渡戸稲造、(日本・スウェーデン協会の会合の演説より)
戦前

万世一系は、戦前において、共和制共産主義革命を否定する根拠とされた。また、日本は君民一体の国柄で、他国のように臣下や他民族が皇位を簒奪することがなく、臣民は常に天皇を尊崇してきたとする歴史観を形成した。さらに、日本は神の子孫を戴く神州であり、延いては世界でも優れた道義国家であるとする発想を生んだ。戦前には、国粋主義と結びついて皇国史観という歴史観を形成した。特に、明治維新から戦中までの期間には、国家公認の史観として重視され、大日本帝国憲法第1条にも記載されていた。

北一輝は自筆の『国体論及び純正社会主義』にて、「日本国民は万世一系の一語に頭蓋骨を殴打されことごとく白痴となる」と万世一系を批判した。この著書は刊行後すぐに発禁処分を受けた。「国体」および「神国」も参照
戦後昭和天皇明仁上皇

[20]

万世一系はもはや公式のセオリーとはされなくなったが、公式の場での談話や発言からは消えなかった。1977年(昭和52年)8月、那須御用邸での記者会見にて、昭和天皇は次のような説明をした[21]。国体というものが、日本の皇室は昔から国民の信頼によって万世一系を保っていたのであります。 ? 昭和天皇、(1977年(昭和52年)8月、那須御用邸での記者会見)

日本国憲法は、天皇の祖先たちへの言及も、王朝の古代史的な古さへの言及もしていない。しかし、皇室の法的地位は、皇位の世襲の原則を再確認することで是認された。1966年(昭和41年)、王朝の起点である2月11日のまま、戦後廃止された「紀元節」がほぼ同義の「建国記念の日」として復活した。

1990年(平成2年)、明仁親王が天皇に即位した。即位にあたり、祖先および神々とのきずなを強調する上代からの儀式、「大嘗祭」が執り行われた。1999年(平成11年)、皇統を褒め称える「君が代」も、国旗国歌法により日本の国歌として確定された。
万世一系がうたわれた実例
大日本帝国憲法詳細は「大日本帝国憲法」を参照

[22]

1889年(明治22年)、近代国家の憲法として大日本帝国憲法が公布された。この憲法では、皇室の永続性が皇室の正統性の証拠であることを強調していた。『告文』(憲法前文)には、以下のような文章がある。…天壤無窮ノ宏謨(こうぼ)ニ循(したが)ヒ惟神(かんながら)ノ宝祚ヲ承継シ… ? 『大日本帝国憲法』告文輝かしき祖先たちの徳の力により、はるかな昔から代々絶えることなくひと筋に受け継がれてきた皇位にのぼった朕は…

そして、憲法第1条にて「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と規定されたのである。近代的な政治文書で「万世一系」のような詩的な文言がもちいられたのは、これが初めてである。「万世一系」のフレーズは公式のイデオロギーの中心となった。学校や兵舎でも、公式な告知や発表文でも、広く使われて周知されていった。


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