七奉行の会
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野田と前原は立候補するが、野田陣営には菅・岡田などが支持に回り、前原陣営には盟友の仙谷・枝野が支持に回り、樽床グループは自主投票とされる。野田・前原は第1回投票でトロイカの一角である小沢一郎らが支持する海江田万里に敗れたが、3位の以下の陣営のほとんどが決選投票では2位の野田に投票し、野田は劇的な逆転勝利を果たした。樽床の投票と玄葉の1回目の投票は明らかではないが、ここでも「七奉行の会」の多くが反小沢で一致結束して行動することになった。こうして、3人目の代表にして七奉行初の内閣総理大臣が誕生した。

新政権下で、前原は党政調会長、樽床は党幹事長代行に就任。玄葉は外務大臣に横滑りした。仙谷は小沢グループの反発をさけるため、入閣は見送られたが、党代表代行から党政調会長代行に横滑りするかたちで政権内に残った。枝野は当初、無役として野田政権を支えてきたが、自身の発言が原因で辞任した鉢呂吉雄の後任として経済産業大臣に就任した。岡田は内閣官房長官か財務大臣への就任を要請されたが、菅政権時に幹事長として小沢グループらの批判を一身に集めたためにこれを固辞、代表経験者として党最高顧問となり、民主党行政改革調査会会長に就任したが、その後の改造内閣で副総理内閣府特命担当大臣(行政刷新、「新しい公共」、少子化対策、男女共同参画)として再入閣を果たし、七奉行全員が政権を担うことになる。

その1ヶ月後、復興庁の発足に伴う閣僚増員で岡田は一部のポスト(「新しい公共」、少子化対策、男女共同参画)を自分に近い中川正春に譲る。2012年6月26日に小沢は消費税の増税に反対し、7月2日に離党し(後に除籍処分となった)、11日に新党「国民の生活が第一」の結党に参画した。七奉行は事実上小沢を民主党から排除した形となり、会結成以来長きに渡る小沢との攻防に終止符を打った。そして、2012年の民主党代表選で親小沢・反小沢の垣根を越え七奉行全員が野田を支持し、赤松広隆原口一博鹿野道彦の3人を破り三選を果たす。その後の内閣改造で岡田・枝野・玄葉は再任、樽床は総務大臣として初入閣(同時に七人の侍としての仲間である三井辨雄厚生労働大臣として初入閣)、前原は国家戦略担当大臣として1年7ヶ月ぶりの入閣を果たし、7人中6人が閣僚となり、残った仙谷は現職の北澤俊美直嶋正行石井一の3人と樽床の前任者である川端達夫、野田の対立候補として代表戦に出馬した赤松と鹿野と共に党の副代表に就任した。

衆議院解散により、衆議院議員総選挙出馬の際、野田の方針に従えないという理由で鳩山が出馬を断念。政界引退し、民主党に残留するトロイカの一角は反小沢派の菅のみとなった。選挙の結果、民主党が壊滅的大敗するなか、岡田・野田・前原・玄葉・枝野は小選挙区で再選を果たしたが、仙谷と樽床は比例復活もできずに落選した[7]。(しかし岡田・玄葉・枝野は自民党候補者に比例で復活当選を許している。)民主党が敗北したことを受け、野田は代表辞任を表明した。
海江田万里代表時代

第46回衆議院議員総選挙での民主党惨敗後に行われた2012年12月民主党代表選挙海江田万里が選出されたことと第3次野田改造内閣において野田・前原・岡田・枝野・玄葉が閣僚であったことなどから発言力を大幅に失うことになった。またその後第23回参議院議員通常選挙において各地元の選挙区の応援を行うことになった。一部[どこ?]マスコミでは影響力の回復が目的であるとされた。しかし、野田の地元である千葉以外で民主党は惨敗した。さらに千葉に至っても自民党候補が二人当選している。また結党以来民主党が議席を守って来た岡田の地元である三重や前原の地元である京都や枝野の地元である埼玉でも議席を失った。また元議員である樽床と仙谷の地元である大阪と徳島[8]でも議席を失った。

当時、政界を引退・落選した渡部、仙谷、樽床を除き、代わりに安住を加えた6人が民主6人衆もしくは単に6人衆と呼ばれている。海江田に対し批判的な立場をとっている[9]。しかし同年9月に行われた党役員人事にて枝野が幹事長・岡田が党代表代行に就任するなど海江田の方から急接近する動きも見せる一方、前原は第46回衆議院選挙で当選した七人の侍の細野豪志らと同調して日本維新の会の合流を模索するなど、自主再建派の岡田と枝野、野党再編派の前原との間で大きな溝を作ることとなる。そして、岡田が新進党まで共に行動した小沢と会談し、生活の党(後の生活の党と山本太郎となかまたち)の所属議員及び党員の一部[10]を復党させることで同意した。その後の衆議院解散に伴う第47回衆議院議員総選挙で仙谷は政界引退、樽床は6人衆と共に出馬する意向を固めたため、安住は事実上仙谷の後任という形で七奉行に加わることとなる。選挙の結果、6人衆と目される七奉行の6人は小選挙区で再選を果たしたが(安住と枝野は自民党の候補者に比例復活を許している。)、樽床はまたしても比例復活を果たせず落選。岡田と枝野を党役員に加えてくれた海江田も惜敗率の関係であと一歩のところで当選を逃してしまい代表を辞任する意向を固める。当面は代表代行の岡田が落選した海江田の代理として暫定代表に就任する。
岡田克也代表時代(第2次)

海江田の後任を決める民主党代表選では岡田が海江田の意思を継ぎ出馬。安住・野田が推薦人に名を連ね、玄葉・枝野は岡田を支持する中、野党再建派の前原は対抗馬である細野を支援すると表明。野党再編に関しては岡田と同じ考えを持つリベラル系の長妻昭と3つ巴となる。投票の結果、野党再編派の細野が僅差で1位だったが、過半数に達していなかったため決選投票となり、1位の細野と僅差で差を縮めた岡田が細野を抜き勝利。9年ぶりに代表に返り咲いた。

その後の党役員人事で枝野は続投。玄葉が選挙対策委員長、安住は国対委員長代理に就任。代表選で戦った長妻と細野を党役員(長妻は代表代行、細野は政調会長)に加えた。
脚注^ “かつて『民主党7奉行』と呼ばれた前原誠司氏、枝野幸男氏らの解党に批判”. ニフティニュース (2017年10月4日). 2017年10月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年11月29日閲覧。
^ 民進党離党以前は前原グループにも所属。2021年11月からはサンクチュアリとの重複所属。
^ 旧立憲民主党代表から続投。
^ 2018年以前は前原グループに所属していた(2017年10月の衆議院選から2018年12月の立憲民主党会派の移籍まで客員会員として参加)。
^ 前原グループ代表だったが、所属議員の合流新参加可否を巡る分裂により事実上の解散となった。
^ 「口にチャックの民主・大物議員…渡部氏除く」『YOMIURI ONLINE』、2010年1月18日。2023年11月29日閲覧。 ⇒オリジナルの2010年1月22日時点におけるアーカイブ。
^ 当選した5人は全員小選挙区での当選であり、落選組との明暗が鮮明になった。
^ ちなみに徳島県はこれにより民主党県連に所属する国会議員がいなくなった。
^ 「「6人衆がふがいないからだ」海江田おろし失速」『読売新聞』、2014年7月13日。2014年7月13日閲覧。 ⇒オリジナルの2014年7月15日時点におけるアーカイブ。
^ 所属議員からは鈴木克昌小宮山泰子の2名。党員からは前職の木村剛司の1名。後の衆院選で復党した3人のうち鈴木と小宮山は再選。維新鞍替え組は6人中太田和美木内孝胤牧義夫の3名が返り咲きを果たす。小沢をはじめとした生活残留組は再選した小沢と玉城デニーを除いて全員落選した。

関連項目

民進党の派閥

第二期民主党をつくる有志の会

竹下派七奉行

士志の会(自民党を中心とした有力議員のグループ)

七人の侍(民主党の親小沢派・中間派を中心とした中堅若手議員のグループ)










民主党
執行部

代表

幹事長

政策調査会長

国会対策委員長

参院議員会長


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