一騎討ち
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旧約聖書の「サムエル記」にはペリシテ人巨人兵士ゴリアテイスラエル兵を挑発し一騎討ちを要求するが、ゴリアテに恐れをなし受け入れる者がいなかった。そこを通りかかったダビデが申し出を受け入れ投石で打ち倒すと、ペリシテ最強の兵士が倒れたことで軍は動揺し遁走、勢いづいたイスラエル兵はそのまま追撃して勝利したという記述がある。
古代ローマ

古代ローマでは、神話的建国者ロームルスがカエニナ人の王アクロンを一騎討ちで破り、その鎧を主神ユーピテルに捧げたという伝説にならって、敵の将軍を一対一で倒した将軍にはスポリア・オピーマ(「貴重な戦利品」)という最高の栄誉・勲章(敵の将軍の鎧を樫の木に取り付けたもの)が与えられる慣例になっていた[7][8]

ロームルスの後に公式にこの栄誉を受けたのはたったの2人で、紀元前5世紀にウェイイ王ラルス・トルムニウスを破ったアウルス・コルネリウス・コッススと、紀元前222年ガリア人のガエサティ族の王ブリトマルトゥス(ウィリドマルス)を破った「ローマの剣」マルクス・クラウディウス・マルケッルスである[8]。コッススは半ば伝説的人物であるので、歴史的に実在が確実なのはマルケッルスただ一人ということになる。なお、戦争当時、ローマ軍の最高指揮官ではなかったために公式な栄誉は受けられなかったが、紀元前29年マルクス・リキニウス・クラッスス同名の大政治家の孫)も、スキタイ人の一派バスタルナエ族(英語版)の王デルドを一騎討ちで倒している[9]
中東バドルの戦いの騎兵

中東での戦争は槍を装備した騎士による一騎討ちから開始されるのが伝統とされた。強力なアラブ騎兵の突撃は脅威であり、対抗するには騎兵が一騎打ちに応じるか弓部隊による攻撃しかなかった。

624年バドルの戦いにおいて、ムハンマド率いるイスラム軍は騎兵の一騎討ちによりメッカ軍の名だたる武将を倒し、騎兵に続いていた歩兵部隊が動揺している隙に弓部隊で遠距離から攻撃、残存兵力を歩兵の突撃で壊滅させるという戦法で勝利を収め、アラブ地域に名声をとどろかせた。しかし負傷者が多発する一騎討ちは危険性が高いと判断したムハンマドは自軍からの一騎討ちを禁止し、最初に弓部隊で騎兵にダメージを与え、連携できなくなった敵部隊を騎兵と歩兵で攻撃するという、少ない被害で確実な戦果を上げる戦法に切り替えた。しかし、伝統的な戦いに拘る騎士達からは反対意見があり従わない者もいた。

625年ウフドの戦いにおいて、ウフド山に布陣したイスラム軍は弓部隊による攻撃でメッカ軍騎兵の突撃を防ぎ戦いを優位に進めていたが、弓部隊が潰走する歩兵を追撃したことで出来た隙を騎兵に突かれ本陣での一騎打ちに発展、ムハンマドが混乱の中負傷したことでイスラム軍に動揺が広がり最終的に敗退した。

627年ハンダクの戦いにおいてムハンマドは騎兵の攻撃を教訓にして一騎打ちを改めて禁止、騎兵の突撃を防ぐためペルシャ人の技術者サルマーン・アル=ファーリスィーに命じて本陣のあるメディナの周囲に塹壕(ハンダク ???? ?andaq/Khandaq)を掘らせ、徹底した防衛線を敷くことによりメッカ軍の攻撃に備えた。当時の中東には攻城戦という概念はなく、本格的な塹壕戦もこの戦いが世界初とされるなど、対処に苦慮したメッカ軍は大規模な攻撃が出来ず、突破口を探して砂漠に野営し続けた。その後メッカ軍の騎士アムルは塹壕の幅が狭くなっている箇所を発見し、数名の従者と共に塹壕内に飛び込んだが、ムハンマドの養子であるアリー・イブン・アビー・ターリブとの一騎打ちに敗れてしまった。この敗北が本隊に伝わるとメッカ軍の志気は低下し、砂漠で長期間野営を強いられたことで消耗していたことも重なり、メッカ軍はメディナ攻略を諦めて撤退した。

このように騎士による一騎討ちは精神的な側面が大きく、弓騎兵であるマムルークの登場で弓が戦いの中心になると、一騎打ちは行われなくなった。
中国

伝説や三国志演義などの物語では一騎打ちが描かれるが、古代中国では複数人が乗り込んだ戦車による戦車戦、歩兵部隊による戦闘、騎馬隊の騎射など集団戦が一般的であり、史実ではないことが多い。しかし一騎打ちが行われた例もある。

有名なもので太史慈孫策呂布馬超閻行関羽顔良が史実の一騎討ちとされている。
武田信玄・上杉謙信の一騎討ち

戦国期に越後国上杉謙信甲斐国武田信玄信濃国北部の領有を巡り川中島の戦いを繰り広げているが、近世初頭に原本が成立した『甲陽軍鑑』や『北越軍談』などの軍学書によれば、第四次川中島の戦いにおいては信玄・謙信が一騎討ちを繰り広げたという。

第四次川中島の戦いの実態については残存文書が少なく、一騎討ちが実際に行われたかは不明。『甲陽軍鑑』に拠れば、白手拭で頭を包み、萌黄の胴肩衣姿で月毛に乗った武者が床几の信玄に三太刀切りつけ、信玄は床几から立ち上がるとこれを軍配で受け止め、御中間頭・原大隅守(原虎吉)がで馬を突き、騎馬武者は走り去った。後にこの騎馬武者が上杉謙信であると判明し、信玄の軍配には八太刀の傷があったという。

一方、上杉側の『北越太平記』(『北越軍談』)では信玄と謙信の一騎討ちは御幣川において行われ、両者は太刀を交え、信玄が手に傷を負い退いたとしている。また、異説として信玄は軍配で太刀を受けたとする説を記す。さらに、『北越太平記』では大僧正・天海の目撃談も記している。

信玄・謙信の一騎討ちは文学や浄瑠璃などにおいても好んで描かれ、浮世絵の画題にもなった。
人物

武田信玄

上杉謙信

脚注[脚注の使い方]^ 『弓矢と刀剣 中世合戦の実像』 p.94。
^ 昭島市長選告示 現新一騎打ち - 東京新聞
^ a b 『語源に隠された日本史』 p.80。
^ 『語源に隠された日本史』 p.79。
^ 『騎兵と歩兵の中世史』 p.16
^ 『騎兵と歩兵の中世史』 p.15
^ ティトゥス・リウィウスローマ建国史』第1巻第10章
^ a b プルタルコス対比列伝』ロームルス伝
^ カッシウス・ディオ『ローマ史』第51巻第23-24章

参考文献

近藤好和『弓矢と刀剣 中世合戦の実像』 吉川弘文館、1997年

近藤好和『騎兵と歩兵の中世史』 吉川弘文館、2005年
ISBN 978-4642055840

武光誠『語源に隠された日本史』 河出書房新社 ISBN 978-4-309-02264-2

関連項目

名乗り

ジョスト - 一騎討ちを競技化したもの

チャンピオン - 一騎討ちの代表者を指す。

チャンピオン・ウォーフェア(英語版) ‐ 各国の最強となるチャンピオンによる代表戦で一騎打ちを行う戦闘。

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