一眼レフカメラ
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127フィルムを使用し4×6.5cm判で8枚撮影できた[5]

35mmフィルムを使用した世界最初の一眼レフカメラはソ連レニングラードのGOMZ(国立光学器械工場、後のロモ)が1935年に発表[6]1936年に発売した「スポルト」とされている[注釈 2]。2枚の金属板を使い、ミラーアップ時に先幕が閉じ、続いて後幕が縦走行するという、縦走り方式のフォーカルプレーンシャッターを搭載、シャッター速度も最高1/500秒から最低1/25秒まで変えることができ、フィルム送りとシャッターチャージは上部の縦方向のダイヤルにより同時に行われる。バヨネット式の交換レンズ機能を有し、フィルム装填は普通の35mmフィルムを専用カートリッジに移し変えて装填、50枚まで連続して撮影できた。専用カートリッジは自作することもでき、ダークバッグ等で映画用35mmフィルムを最大50駒分切断し、リールに差し込めば容易に撮影できた。反射ミラーによる上部からの一眼レフ式ファインダーのほか標準レンズ用の透視式ファインダーも装備し、約16,000台販売された。

同年の1936年、「スポルト」に続いてイハゲーもスタンダード・エクサクタの基本性能をそのままに小型化し、ライカ判を使用するウエストレベルファインダーの一眼レフカメラ「キネ・エクサクタ」を発売した。この「(バヨネットマウントのライカ判)エクサクタ」シリーズは1950年にファインダー交換式としてペンタプリズム式をもラインナップし1960年代末まで連綿と製造販売され、多数の交換レンズ群をも提供し数多くのバリエーション機種を供した。

以降ほとんどの一眼レフカメラはこの135フィルムを用いたものが大勢を占めるが、高画質を求める用途では120フィルムを用いた6×7cm判や6×4.5cm判の中判一眼レフカメラや、110フィルムを用いたものも登場した。詳細は「135フィルム」および「写真フィルム」を参照
正立正像のアイレベルファインダーを持つ一眼レフカメラ
デュフレックスハンガリー写真博物館(ハンガリー語版)所蔵のドゥフレックス

最初の「正立正像アイレベルファインダーを持つ最初の一眼レフカメラ」「クイックリターンミラーを備える一眼レフカメラ」は1947年1948年ハンガリーのガンマ[注釈 3]から発売されたデュフレックスである。どちらも画期的な機構ではあったが、生産数が非常に少数であったことと東西冷戦のため市場には全く影響を与えず、このカメラの存在が日本で認知されたのは1970年になってからである。このカメラは現在一般的であるペンタプリズムを使わずポロミラー式であった。
コンタックスS

最初の「ペンタプリズム式一眼レフカメラ」は1948年東ドイツドレスデンツァイス・イコンによるコンタックスSであり、デュフレックスより企画段階では先行していた。「コンタックスS」は現在においても最も普及しているスクリューマウント形式であるM42マウントを採用、フランジバック・内寸口径の国際規格を有する卓越したシステムカメラで、無数の世界中の各種交換レンズ互換性を有し、ロールフィルムを用いたペンタプリズム式一眼レフカメラの規範となった。
戦後日本における一眼レフカメラの発展と隆盛アサヒペンタックス(AP)ニコンF
欠点の克服、クイックリターンと自動絞り

日本では一眼レフカメラが早くから開発されてきた。これはレンジファインダーカメラの分野ではライカM3など極めて完成度が高いものがすでに存在しており、日本のメーカーがその土俵での勝負を避けて別の方面からのアプローチをしたためだと言われている。

黎明期の一眼レフカメラは「撮影の際にブラックアウトする」「絞り込むとファインダーが暗い」ということが欠点として言われていたが、前者に関しては旭光学工業(現リコーイメージング)が1954年クイックリターンミラーを装備したアサヒフレックスIIbを、後者に関してはズノー光学工業1958年自動絞り機構を装備したズノーペンタフレックスを発売して解決した。1957年には、旭光学工業から世界初のクイックリターンミラーとペンタプリズムを両方搭載したアサヒペンタックス[注釈 4]が開発され、特に一眼レフカメラに大きな欠点を感じずに使えるようになった。ズノーペンタフレックスは歴史に名を残したものの故障が多く返品が相次いだと言われるが、1959年ニコンから発売されたニコンFは非常に頑強で、報道の世界からスピードグラフィックローライフレックスを駆逐する等、業務用としても非常に広く使われた。以後クイックリターンミラー・自動絞りの双方を装備するのが当然となっていった。石川文洋ベトナム戦争で使用したNikon F

広角レンズに関しては当初ミラーアップして装着する[注釈 5]対称型レンズのみのラインナップであったが、アンジェニューが発明した逆望遠方式で設計されるようになってからは非常に充実したラインナップを持つようになった。

日本製カメラの攻勢に西ドイツのメーカーもようやく一眼レフカメラの重要性に目覚め、ツァイス・イコンは外部測光式ながら世界初の露出計連動型一眼レフカメラであるコンタレックスを、エルンスト・ライツ(現ライカ)はライカフレックスをやや遅れて登場させたが、登場直後から市場での競争力は不十分であった。結果としてエルンスト・ライツは倒産し、ツァイス・イコンはカメラ事業から撤退した。キヤノンニューF-1
プロ用一眼レフカメラ、ニコンとキヤノン

ニコンFが業務用として非常に高い地位を得た一方、キヤノンはキヤノンフレックスを発売したもののあまり評価を受けなかったが、1971年にプロ用一眼レフカメラキヤノンF-1を発表した。交換レンズの色再現を揃えたスーパースペクトラコーティングを施し特にグラフィックの分野で高く評価され、以後ニコンF3とキヤノンニューF-1等ライバルとしてしのぎを削りつつ発展して行くこととなる。
電子化、TTL露出計と自動露出とオートフォーカス

1960年代から技術革新が進み、TTL露出計自動露出オートフォーカスなどの電子技術が一眼レフカメラに矢継ぎ早に搭載され、さらには低価格化した。これによりアマチュアにも扱いやすいカメラが多く発売され、一眼レフカメラユーザーの裾野を広げる一因となった。

1960年フォトキナにおいて世界初のTTL露出計搭載一眼レフカメラ、アサヒペンタックスSP(発売は1964年)が発表されたのを皮切りに、1963年には東京光学(現トプコン)が最初のTTL露出計搭載一眼レフカメラトプコンREスーパーを発売、ニコンFも1965年にフォトミックファインダーTを発売するなどTTL露出計が浸透した。1975年にはオリンパス OM-2フラッシュ光でもTTL露出が可能なTTLダイレクト測光を搭載して発売された。

自動露出自体は以前からあったが、キヤノンが1976年に発売したキヤノンAE-1は世界で初めてCPUを積む等徹底した電子化により低価格で発売、世界中で爆発的な売れ行きを記録しカメラ業界に地殻変動を起こした。ミノルタα-7000

1985年にはミノルタ(現コニカミノルタ)が世界初の実用的なシステムを持つオートフォーカス一眼レフカメラα-7000を発売してカメラ業界全体へ大きな衝撃を与え、αショックと呼ばれるほどであった。ニコンは1986年従前のシステムと互換性のあるオートフォーカス一眼レフカメラニコンF-501を、キヤノンは1987年従前のシステムとは互換性がないもののレンズ内モーターで迅速なピント合わせが可能なEOS650を発売してこれに対抗。さらに同年、世界初の内蔵TTLフラッシュを搭載したペンタックスSFXが発売される。国内で販売される一眼レフカメラのうちオートフォーカスの割合は既に1986年4月末には50%を超えた。オリンパスOM-1


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