一条兼良
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兼良の養生法はかなり専門的で、実践的であった。『尺素往来』に詳しく書かれており、兼良が着目した薬類は、舶来の人参甘草などの十七種と、国内産の山薬厚朴茯苓など十八種で、こうした生薬をもとに牛黄円や麝香丸、蘇合円といった常備薬、救急薬の精製に通じていた[19]

18歳の時、将軍・足利義持から「白馬節会は何故“あおうまのせちえ”と読むのか?」と尋ねられた兼良は、『宇多天皇宸記』を引用して解説したところ、義持から感心されたという[20][15]

将軍・足利義尚に政道和歌などを教えていた。後年、義尚が結城政胤尚豊兄弟や大館尚氏、二階堂政行ら一部側近に幕政を委ねたとき、兼良は義尚の側近重用に危惧を持ち、「近習者をえらばるべき事」と諫めたとされる。

官歴

※日付=旧暦

応永19年(1412年

11月28日:元服、正五位下に叙位、禁色昇殿を許される。

12月24日:右近衛少将に任官。


応永20年(1413年

1月5日:従四位上に昇叙。

1月14日:左近衛中将に転任。

4月16日:従三位に昇叙。


応永21年(1414年

1月5日:正三位に昇叙。

3月16日:権中納言に任官、左近衛中将如元。


応永22年(1415年)1月6日:従二位に昇叙。

応永23年(1416年

1月6日:正二位に昇叙。

11月4日:権大納言に任官。


応永27年(1420年

閏1月13日:右近衛大将を兼任。

3月26日:左近衛大将を兼任。


応永28年(1421年)7月5日:内大臣に任官。7月8日:左近衛大将如元。

応永30年(1423年)8月27日:左近衛大将を辞任。

応永31年(1424年)4月20日:右大臣に任官。

応永32年(1425年)1月5日:従一位に昇叙。

正長2年(1429年)8月4日:左大臣に任官。

永享4年(1432年

8月13日:摂政宣下、一座宣下、内覧宣下、藤原氏長者宣下、左大臣如元。

8月28日:左大臣を辞任。

10月27日:摂政・内覧を辞す、一座・藤原氏長者を去る。


文安3年(1446年)1月29日:太政大臣宣下、一座宣下。

文安4年(1447年)6月15日:関白宣下、内覧宣下、藤原氏長者宣下、太政大臣・一座如元。

宝徳2年(1450年)4月28日:太政大臣を辞任。

享徳2年(1453年

4月28日:関白・内覧を辞す、一座・藤原氏長者を去る。

6月26日:准三宮宣下。


応仁元年(1468年)5月10日:関白宣下、内覧宣下、一座宣下、藤原氏長者宣下。

文明2年(1470年)7月19日:関白・内覧を辞す、一座・藤原氏長者を去る。

文明5年(1473年)6月25日:出家、覺惠を号す。

文明13年(1481年)4月2日:薨去、享年80。

系譜

父:
一条経嗣

母:東坊城秀長の娘

正室:中御門宣俊の娘(1405-1473、小林寺殿)

長男:一条教房(1423-1480)

女子:尊秀 - 八幡一条院尼

男子:教賢(?-1449) - 宝池院権僧正。将軍足利義教猶子となり「教」の字を賜う。

男子:尋尊(1430-1508) - 大僧正法務興福寺別当

男子:厳宝(?-1481)- 大僧正法務東大寺別当准后

女子:秀高

男子:良鎮(?-1516) - 大僧正北野別当。祖父・一条経嗣の養子。

男子:桓澄(1442-1471)- 権僧正

男子:慈養

女子:了高


妻:家女房

女子:光智

男子:恵助(1450-1477)


妻:源康俊の娘(大納言局)

女子:秀賢(1453-?)

女子:一条経子 - 鷹司政平鷹司家、関白・太政大臣)室

女子:尊好(1458-?)

女子:宗方


妻:町顕郷の娘(1443?-1490、権中納言局、三条局、南御方)

二十三男:一条冬良(1464-1514)

男子:政尊(1465-1481)- 大僧都。将軍足利義政より「政」の字を賜う。

女子:南御所(1476-?) - 将軍足利義政夫人日野富子の猶子、宝鏡寺本光院尼


生母不明の子女

女子:高千穂有俊室(?-1455)

斎藤義龍の妻には「一条氏」の女性がおり、彼女は『孤岫語録』によると一条兼良の末裔とされている。兼良が応仁の乱の際に美濃国に下向した時にもうけた子の末裔と考えられる[21]
著書

公事根源

『樵談治要』

『桃華蘂葉』

日本書紀纂疏

『伊勢物語愚見抄』

尺素往来

花鳥余情』(源氏物語の注釈書)

源語秘訣』(花鳥余情の秘伝書)

源氏和秘抄

『源氏物語之内不審条々』

『口伝抄』(源氏物語の注釈書)

源氏物語年立

『世諺問答』

『梁塵愚案抄』(神楽歌催馬楽の注釈書)

『藤川の記』

玉英記抄


鴉鷺合戦物語』の作者とする説がある。

脚注^ 『一条兼良』 - コトバンク
^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、122頁。 
^ 樋口健太郎「摂関家九条流における「氏寺」の継承と相論」(初出:『神戸大学史学年報』29号(2014年)・改題所収「摂関家九条流における「家門管領寺院」の継承と相論」樋口『中世王権の形成と摂関家』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02948-3) 2018年、P260-261
^ 田村、2013、pp.14 - 15
^ “【戦国こぼれ話】現在は学者受難の時代?戦国時代は重要だった知識人たち!(渡邊大門)”. Yahoo!ニュース (2020年10月5日). 2020年12月22日閲覧。
^建内記』永享11年6月28日条
^ 田村航によれば、正確にはの衛G『礼記集説』に記された朱熹の注釈に基づく説であるという(田村、2013、pp.136 - 143.)。
^康富記』嘉吉3年12月8日条・『看聞日記』嘉吉3年12月13日条
^ 田村、2013、pp.16・131 - 132.
^ 田村、2013、pp.15 - 16.
^ 今谷明 『戦国の世 日本の歴史[5]』 岩波ジュニア新書、 2000年 pp.75 - 76.現代では、戦国期は応仁の乱以後とされているため、戦国期当時に「戦国の世」と表記された現存資料の初見は尚通となるが、日本史内で初めて中国戦国期に見立てたのは兼良である。
^ 三浦周行「樵談治要と文明一統記」・原勝郎「東山時代に於ける一縉紳の生活」・内藤湖南「応仁の乱に就て」・和辻哲郎『日本倫理思想史』など、表現の違いはあっても共通の兼良評がみられる。


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