戦国時代末期には武士の集団を一揆と呼ぶことはほとんど無くなり、土民・百姓の集団を指す用語となる[15]。しかし武士の一揆が消滅したわけではなく、戦国大名権力の中で形を変えて存続したと見られている[16]。 1637年(寛永14年)の島原の乱以降、江戸幕府は百姓が徒党を組むことを禁じ、一揆は禁じられた[17]。農民たちは自分たちの行為を「一揆」とは決して呼ばなかったが、農民たちが要求を通すために徒党を組む「百姓一揆」は継続して行われた[17]。 近世の百姓一揆には次のような形態があった[18]。
近世.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに浮世の有様の原文があります。
江戸時代の一揆
形態
暴動 - 農民の暴力的蜂起[18]
逃散 - 一家または村全体が他所に逃げ出すこと[18]
越訴 - 制度的な手順に従わずに上級の役人に訴えること[18]
強訴 - 多数の農民が城下や代官所などに押しかけて訴えること[18]
打ちこわし[18]
変遷や惣百姓一揆
呉座勇一は当時一般の百姓が「武士は百姓の生活がきちんと成り立つように良い政治を行う義務がある」と考えており、政治参加や体制変革の意識自体がなかったため、百姓一揆は反体制運動ではないことを指摘している[25]。與那覇潤は「政治は全てお上におまかせ、ただし増税だけは一切拒否」と表現している[25]。
幕府では一揆を未然に防ぐため、盛況すぎる盆踊りを規制するなどしていた[26]。 明治時代初期には新政府の政策に反対する徴兵令反対一揆や解放令反対一揆といった新政反対一揆、地租改正反対一揆が起こる。
明治時代の新政反対一揆