一揆
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また、この時代は寺社も領主であったことを背景に、寺社を基盤とした一揆もつくられ、浄土真宗本願寺派高田派法華宗などの門徒が、自らが属する教団を中心として起こした一揆も形成された。特に著名なのが浄土真宗本願寺派の一向一揆で、加賀国石川県)では、室町時代に応仁の乱で東軍に属した守護の富樫氏を追放し、戦国時代まで100年近くに亘って一揆勢が共和国的な体制を維持していた(加賀一向一揆)。ただし、これらの一揆の構成はかなり複雑で、門徒以外の参加者も多くおり、同時代では「土一揆」と変わらないものとみられていたこともある[14]

戦国時代末期には武士の集団を一揆と呼ぶことはほとんど無くなり、土民・百姓の集団を指す用語となる[15]。しかし武士の一揆が消滅したわけではなく、戦国大名権力の中で形を変えて存続したと見られている[16]
近世.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに浮世の有様の原文があります。
江戸時代の一揆

1637年(寛永14年)の島原の乱以降、江戸幕府は百姓が徒党を組むことを禁じ、一揆は禁じられた[17]。農民たちは自分たちの行為を「一揆」とは決して呼ばなかったが、農民たちが要求を通すために徒党を組む「百姓一揆」は継続して行われた[17]
形態

近世の百姓一揆には次のような形態があった[18]

暴動 - 農民の暴力的蜂起[18]

逃散 - 一家または村全体が他所に逃げ出すこと[18]

越訴 - 制度的な手順に従わずに上級の役人に訴えること[18]

強訴 - 多数の農民が城下や代官所などに押しかけて訴えること[18]

打ちこわし[18]

変遷

江戸時代前期には、直訴逃散など武力を用いない一揆が主に行われた[19]。中期には全藩一揆や惣百姓一揆、強訴などと呼ばれる大規模な蜂起が主流となる[20]。何万人といった百姓が集結する大規模なものであるが、家屋を少し傷つけたりする程度で、放火や略奪・殺傷などは厳しく統制されていた[20]。また、刀狩以降も大量の武器を保有していたのにもかかわらず、農民が武装することはなく、などの農具を持ち、鉄砲竹槍を攻撃のために使用することはほとんどなかった[21]。このため対応する武士側も原則的に強硬な対応は取れず、鉄砲を用いるのには幕府の許可が必要とされた[22]。一揆の発生は幕府から統治の失敗と見られることもあり、最悪の場合は領主の処罰や改易の恐れもあった。このため領主側も対応には穏便な対応を取らざるを得なかった[23]。百姓一揆の闘争形態の分類として、代表越訴、惣百姓一揆、村方騒動、国訴などが挙げられる。

江戸時代後期の天明天保年間には再び広域の一揆が多発した。武州騒動では無宿など「悪党」と呼ばれる集団に主導され、武器を携行し打ち壊しのみならず、強盗や放火など、百姓一揆の作法から逸脱した行為を行う形態の一揆も見られたとされる。ただし、武器を使用したという記録は幕府側にしか無く、保坂智は幕府が銃撃して鎮圧したことを正当化するためのものではないかと指摘している[24]幕末には世直し一揆が各地で発生している。

呉座勇一は当時一般の百姓が「武士は百姓の生活がきちんと成り立つように良い政治を行う義務がある」と考えており、政治参加や体制変革の意識自体がなかったため、百姓一揆は反体制運動ではないことを指摘している[25]與那覇潤は「政治は全てお上におまかせ、ただし増税だけは一切拒否」と表現している[25]

幕府では一揆を未然に防ぐため、盛況すぎる盆踊りを規制するなどしていた[26]
明治時代の新政反対一揆

明治時代初期には新政府の政策に反対する徴兵令反対一揆解放令反対一揆といった新政反対一揆地租改正反対一揆が起こる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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