一式戦闘機
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さらに区分が明文化された昭和15年度『陸軍航空兵器研究方針』では、「重戦」は高速重武装かつ航続距離や防弾装備にも優れ対戦闘機対爆撃機戦に用いる万能機たる本命機に昇華した一方で、「軽戦」は格闘戦を重視し主に対戦闘機戦に用いる性能装備面で妥協した補助戦闘機的ものとなっている。1941年12月には中島に対し「重戦」の発展型としてキ84の内示が行われ、これはのちに四式戦闘機「疾風」として制式採用。これは速度・武装・防弾・航続距離・運動性・操縦性・生産性に優れた万能機たる本命機となっている。続く昭和18年度『陸軍航空兵器研究方針』では「軽戦」と「重戦」の区分は廃止され、妥協の産物かつすでに時代遅れの存在である「軽戦」は「重戦」に併呑され「近距離戦闘機(近戦)」となっている(同年度方針では「近戦」のほかに「遠距離戦闘機(遠戦)」・「高高度戦闘機(高戦)」・「夜間戦闘機(夜戦)」の区分が登場)。
試作・審査一式戦一型(キ43-I)詳細は「#飛行性能」および「#武装」を参照

引込脚以外の機体基本構造は前作の九七戦を踏襲したことから開発は順調に進み(反対に日本機にとって革新的なキ44には新技術や新構想が盛り込まれた)、供試体である試作0号機を経て1938年12月に試作1号機(機体番号4301)が完成、同月12日に利根川河畔中島社有の尾島飛行場にて初飛行している(操縦はテスト・パイロット四宮清)。エンジンは中島で開発されたハ25を、翼型はNN-2・翼端部はNN-21を採用(上反角6度・取付角2度・翼端部2度捩下)、またアルミニウム製燃料タンクができた時点で陸軍から防弾タンク(防漏タンク・防火タンク)化の指示がなされている(#防弾装備[6]

試作1号機の胴体形状は増加試作機以降とは大きく異なり引込脚化された九七戦を引き伸ばした感じであり、風防は枠の無い曲面1枚物といった特徴がある(初飛行後に景色の歪みが問題とされ平面主用の3枚物に換装)。1939年(昭和14年)1月、立川陸軍飛行場に空輸されたキ43試作1号機は陸軍航空技術研究所による審査に移行。同年2月に試作2号機、3月には試作3号機が完成し審査に合流している。

航技研や明野陸軍飛行学校での審査の結果、キ43は九七戦に比べ航続距離は長いものの旋回性に劣り最大速度の向上は30km/h程度ということが判明したうえ、同年5月に勃発したノモンハン事件(主に前期ノモンハン航空戦)で九七戦が旋回性能を武器に活躍したこともキ43採用に対して逆風となっていた[7]。同年11月、審査の結果を受け胴体以下各部を改め全体のスタイルがのちの制式機相当となった増加試作1号機(通算試作4号機)が完成したが、ノモンハン事件の戦訓として次期戦闘機には更なる高速化・武装強化・防弾装備が求められたこともあり、依然キ43の審査は長引いていた。

第三次審査計画を経て、軽戦派・重戦派の双方から中途半端とみなされたキ43試作機型をそのまま制式採用することは見送り、より強力なエンジン(ハ105)に換装して高速化を図った、キ43性能向上第二案の開発を進めることが決定された[8](第一案では固定脚化など徹底的な軽量化が行われたものの不採用)。速度と上昇力と航続距離の向上を重視する実用側の明飛校審査員間においてもこのエンジン換装案は支持され、直後の研究会においてキ43-II相当となる第二案の開発が確定した。このため、中島のキ43設計主務者小山技師もキ43再設計を開始している。
採用一式戦一型(キ43-I)

キ43性能向上第二案の開発が続けられる間にも日本とイギリス・アメリカの関係は悪化の一途を辿った。1940年(昭和15年)夏、参謀本部は南進計画に伴い南方作戦緒戦で上陸戦を行う船団を南部仏印より掩護可能、また遠隔地まで爆撃機護衛および制空が可能な航続距離の長い遠距離戦闘機(遠戦)を要求する。仮想敵であるイギリス軍新鋭戦闘機スピットファイアに対抗可能と考えられ、本来は陸軍主力戦闘機となるべきキ44(二式戦)の配備が間に合わないことと[注 4]陸軍飛行実験部実験隊(航技研審査部門の後身)のトップである今川一策大佐の進言もあり、一転してキ43試作機型に一定の改修を施した機体を制式採用することが決定。同年11月、主に以下を内容とする『キ43遠戦仕様書』が中島に示され、翌1941年(昭和16年)3月に改修機が飛行実験部実験隊戦闘班に引き渡され再度試験が進められた。キ43性能向上第二案開発中であった当時、不採用であるキ43原型試作機型を急遽採用する行為に対して開発・審査側では反対や混乱が起きている。またキ43原型試作機型の採用が凍結され、中島による根本的な再設計が行われていたためキ43原型試作機型生産のための治具は片付けられていた。なお、陸軍はあくまで不満足な「キ43原型試作機型」を採用することは本来はせず、「キ43性能向上型」の開発・審査を再度行ったのちこれを採用する方針であったため、決してキ43自体の開発はお蔵入りになっていたわけではない。

『キ43遠戦仕様書』

型戦闘フラップの装備

定速回転プロペラの装備

爆弾落下タンクの装備

武装の12.7mm機関砲化

行動半径の1,000km以上化

エンジンはハ25を使用

かつて問題となっていた九七戦との運動性の比較については、戦闘フラップを使用しなくとも水平方向でなく上昇力と速度を生かした「垂直方向」の格闘戦に持ち込むことで、不利な低位戦であっても圧倒可能と判断されている。これはノモンハン事件におけるソ連軍戦闘機I-16の戦法を参考にしたものとされ[5]、飛行実験部テストパイロット岩橋譲三大尉の研究結果であった。

これらの結果を受けて1941年(皇紀2601年)5月、キ43は陸軍軍需審議会幹事会において一式戦闘機として仮制式制定(制式採用)された。参謀本部の要請からキ43の採用を望んでいた航本総務部は、制式決定を待たず中島に対して400機生産の内示を出したとされており、一式戦量産1号機は同年4月に完成し6月時点で約40機がロールアウトしている[9]
実戦投入南方作戦における「軍神加藤少将」率いる第64戦隊と一式戦の活躍を描いた映画『加藤隼戦闘隊』の劇場ポスター(#愛称)詳細は「#実戦」を参照

制式採用の遅れから、太平洋戦争開戦時に一式戦が配備されていた実戦部隊は飛行第59戦隊飛行第64戦隊の僅か2個飛行戦隊(第59戦隊2個中隊21機・第64戦隊3個中隊35機)であった。しかし、南方作戦においてこれらの一式戦は空戦において喪失比で約4倍の数を、対戦闘機戦でも約3倍の数の連合軍機を確実撃墜、以下の記録は開戦日である南方作戦期間中たる1941年12月8日(マレー作戦開始)から1942年3月9日(蘭印作戦終了)にかけて、当時の日本軍と連合軍が残した戦闘記録比較調査により裏付の取れた一式戦の確実な戦果である[10]


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