一川保夫
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衆議院議員(3期)、参議院議員(1期)、防衛大臣第9代)、参議院災害対策特別委員長民主党参議院政策審議会長、同参議院幹事長、同幹事長代理、同石川県連代表[2]石川県議会議員(2期)等を歴任。
来歴

1942年石川県小松市に生まれる。石川県立松任農業高等学校を卒業後、三重大学農学部農業土木学科を卒業した。1965年に農林省(現農林水産省)に入省し、以後25年間勤務する[3]1990年に農林水産省を退官した。

1991年4月に父・一川保正の後を継いで石川県議会議員選挙自由民主党公認で出馬し、初当選。石川県議会では石川県選出の奥田敬和系列に属した。1993年6月に奥田が自民党を離党したのに従い、一川は石川県議会の同僚議員である金原博宇野邦夫らとともに自民党を離党し、新生党結党に参加した。翌1994年12月に新生党が解党したことにより新進党結党に加わった。

1996年10月に奥田の推挽により石川県議を辞職し、第41回衆議院議員総選挙石川2区から新進党公認で出馬した。石川2区では森喜朗に敗れるが、重複立候補していた比例北陸信越ブロックで復活し、初当選。衆院選後、奥田が後見役を務める羽田孜と、新進党党首の小沢一郎の対立が激化した。羽田や奥田らは新進党を離党して太陽党を結成するが、一川は新進党に残留し、以後は小沢の側近として行動を共にする。

1997年12月に小沢党首が突如新進党の解党を宣言し、自由党結党に参加した。1998年7月の第18回参議院議員通常選挙では、石川県選挙区で民主・自由・社民さきがけの4党推薦の岩本荘太が現職の沓掛哲男を破り当選。参院選後に奥田が死去すると、補欠選挙に奥田敬和の長男・奥田建を擁立して当選させ、石川県非自民勢力の中心人物となった。2003年9月の民由合併により民主党に入党した。

2005年9月の第44回衆議院議員総選挙では、石川2区で森に敗れ、比例復活もできず落選したが、石川県連代表の職には留まった。

2007年7月の第21回参議院議員通常選挙に石川県選挙区から出馬し、自民党公認の矢田富郎を約4千票の僅差で破り初当選。当初石川県連は別の候補者擁立を模索していたものの不調に終わり、やむなく県連代表の一川が擁立された。

2010年9月、輿石東参議院議員会長の下で参議院政策審議会長に就任した[4][5]

2011年9月に成立した野田内閣防衛大臣に任命され初入閣したが、就任直後から閣僚としての資質が問われる言動が相次いだ(#防衛大臣としてを参照)。一川は「防衛相としての本来の責任を問われる致命的なものはない」として辞任する考えがないことを強調し[6]、不適切発言で更迭した元沖縄防衛局長を停職40日の懲戒処分とすることや、監督責任を取る形で自身の在職中の大臣給与を全額返納することを発表したが[7]第179回国会会期末の12月9日に参議院問責決議案が可決された。任命者である野田佳彦内閣総理大臣は問責決議案の可決後も一川と山岡賢次国家公安委員長消費者担当大臣を更迭しない意向を示した[8]2011年12月20日、長渕剛(左)に特別感謝状を贈呈した一川(右)

同年12月20日、東日本大震災で精力的な慰問活動を行った歌手・長渕剛防衛省に招き感謝状を贈呈するとともに同省講堂内で初となるライブを行った。しかし、3日前の12月17日には北朝鮮金正日総書記の死去が発表され情勢が緊迫しており、当日は自衛隊南スーダン派遣空自次期主力戦闘機の機種など防衛省関連の重要事項が閣議決定されたばかりであったことから、批判の声が上がった[9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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