一宮
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文献上における「一宮」称号の初見は、12世紀前半に成立したとされる『今昔物語集』に書かれた「今ハ昔シ周防ノ国ノ一宮ニ、玉祖ノ大明神ト申ス神在ス」の記述と言われている。

また、大治2年(1127年)進奏の『金葉和歌集』に見える「能因に歌よみて一宮にまゐらせて雨祈れと申ければ」との記述や、1915年大正4年)に伯耆国一宮である倭文神社の経塚より発掘された康和5年(1103年)在銘の経筒に「山陰道伯耆國河村東郷御坐一宮大明神」の銘文があるなど、12世紀頃より文献・文書・物品に一宮の称号が入ったものが見え始めることから、前述のように10世紀から11世紀の国司神拝を起源として12世紀に確立したのではないか、とするのが通説になっている。

しかしながら、『一宮ノオト ノオトその17』[3]が指摘するように、その起源が7世紀の一宮争いにあるとする相模国国府祭伝承など、11世紀から12世紀の成立説と相容れない伝承がいくつかある。『「鎮守神」と王権』[注釈 7]においても、一宮の成立時期には国によって懸け隔てがあり、各国の一宮は国家による法や政策を前提として一時期・一律に整備されたものとは言えないと述べている。
二宮、三宮

二宮、三宮の起源も国司の神拝順とする説があるが、『時範記』に国内をぐるりと一周してくる国司神拝順路が記述されている因幡国では二宮が不詳である。それとは逆に九宮まである上野国では、地図上で一宮から九宮までを順番に線で結ぶと同じ道を行き来することになり、『一宮ノオト』[3]では国司神拝の順路として変ではないかと指摘している。

諸国における国司神拝を取り巻く状況も様々で、『中右記』の保延元年(1135年)5月6日の条には大和国司が下向神拝を拒否され、しかも大和国では国司神拝はこれまでも行われていなかったとの記述がなされている。また、『中世長門国一宮制の構造と特質』[注釈 10]によれば、長門国では一宮と二宮を対等な存在と認めて、両社をセットとする新たな一宮体制づくりが進められたとし、その他にも能登国が一宮と二宮しかないこと、摂津住吉大社出雲杵築大社などでは国鎮守が一つに限られていて「一宮」呼称がないことを挙げている。このように多様な国内事情から二宮・三宮の成立状況は諸国で異なっており、後掲の「一宮の一覧」においても二宮以下が「不詳」あるいは「ない」国がいくつかある。

これに関して、『「鎮守神」と王権』[注釈 7]では、1970年代の議論以降、二宮や三宮は神祇順位の表現として一国内の政治的・社会的関係を反映したものと考えられてきた、と述べている。また、『一宮ノオト ノオトその14』[3]では、巡詣順が一宮を決めたのではなく、一宮の存在により国司の巡詣順が決まったのではないかと考察している。
変遷と争い

『「一宮」の選定とその背景』[注釈 1]では、民衆の一般的な崇敬を基にして起こった神社の等差的観念が競って神社に順位付けを行い、この結果、時代と共に一宮の変遷や一宮争いが起こり、時には自ら僭称するものも現れたとしている。また冒頭にあげた通り、同書では一宮は全て式内社より選ばれたとし、異説に基づく社名の変更が見受けられるのは、時代による変遷や私的に僭称したことの現われであると考察した。

しかし、南北朝時代応安8年(南朝の元号では天授元年、1375年)2月24日以前に成立したとされる卜部宿禰奥書『諸国一宮神名帳』では、陸奥国一宮に鹽竈大明神、豊後国一宮に柞原大菩薩と式外社が記載されており、全て式内社の掲載となるのは、その後の室町時代に編纂された『大日本国一宮記』とその類本からである。『「一宮記」の諸系統 ?諸本の書誌的考察を中心に?』[注釈 11]では、卜部宿禰奥書の『諸国一宮神名帳』を基に『大日本国一宮記』を編纂した際、選者は『延喜式神名帳』の式内社を強く意識したため、式外社は記載から外されたのではないかと考察している。また、『大日本国一宮記』では異なる2つの神社を同一社であるかのように記載している箇所があり、諸国の実態を把握して編纂されたかについては疑問の余地がある。

以上に関わらず、諸国において「一宮の変遷」、2つ以上の神社の「一宮争い」は実際に伝えられており、以下にその具体例をあげる。
一宮の変遷
武蔵国の一宮、二宮、三宮は、南北朝時代の文献と室町時代の文献で順位が入れ替わっている。武蔵国#神社および氷川神社を参照のこと。

越中国は能登国を併合・分立しており、その際に一宮に変遷があった。越中国#総社・一宮射水神社および気多神社を参照のこと。

備前国では同国内で唯一の名神大社に列せられた安仁神社が一宮となるはずであったが、天慶2年(939年)に起きた天慶の乱において同社が藤原純友方に味方したため、一宮の地位を朝廷から剥奪されたとされ、その地位は隣国の備中国一宮たる吉備津神社(岡山市吉備津)より分祀のうえ備前国に創建された吉備津彦神社(岡山市一宮)に移ったと伝えられる。備前国#国府・一宮などを参照のこと。

一宮争い
7世紀の
相武(さがむ)と師長(しなが、「磯長」とも表記する)の合併により相模国が成立した際、相武と師長のいずれの一宮を相模国一宮とするかで争いが起きた。国府祭(こうのまち)および川勾神社を参照のこと。

鳥海山を御神体とする出羽国一宮では、全山への影響力を確保する争いが登山口にある里宮の間で起こった。鳥海山大物忌神社を参照のこと。

白山比盗_社に伝わる『白山之記』[注釈 12]には、能登国を分立後に越中国一宮となった射水神社と気多大社から分祠された気多神社の間で一宮争いが起きたと記されている。


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