一夫多妻制
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この際の経済的扶助手段として導入された、とされる。また教義面からはイスラームは宗教的に結婚と社会的再生産を奨励するため、女性の結婚する権利を重視する。しかしながら戦時など一時的に男女間の人口不均衡が起こった際に女性が結婚できにくくなる可能性があり、この際に女性の結婚権を保障するために一夫多妻制が導入されたとも説明しうる。また前近代もしくは発展途上国において、男性による女性への選好の容認および血統主義の観点から、一夫一妻制で子をなせない場合に男性が妻以外の女性と子をなすことが想定され、これを制度化することにより、男性優位的な婚姻制度に一定の安定性を持たせたものともいえる。

一般的にはオリエンタリズム的な乱脈で淫靡なイメージがイスラームの一夫多妻制から想起されているが、現在の日本の学会の主流見解ではこのようなイメージの大部分は外部世界の偏見や無知、また悪意ある宣伝に基づいたものであるとされている。イスラームにおける婚姻制度は法的に極めて厳格であり、二人以上の妻をもつ場合の男性の経済的負担は非常に大きいものとなる。したがって一定以上の社会的地位と経済的実力を持たない限り二人以上の妻を持つことは困難である。歴史的にイスラーム社会においても二人以上の妻をもつのはごく限定的なものであり、それ以上は大商人などの非常に限られた層だけであったことが明らかになっている。

近代に入ると、社会の安定に伴って一夫多妻は減少し、さらにヨーロッパ法の導入にともない、イスラーム社会においても一夫一妻がほとんどとなった。これに対しては当初の理念的としては女性差別の制度ではなかったとしつつも、社会秩序維持上必ずしも必要な制度ではない、もしくは時代にそぐわないとしてムスリムが大多数の国家でも一夫多妻の婚姻にかかわる審査を非常に厳格化している国も存在する。2009年時点において、現在法律によって、完全に一夫多妻制を禁止している国としては、トルコチュニジアが挙げられる。
預言者ムハンマドの特例

クルアーン第2章によれば、預言者ムハンマドには4人を超える妻が認められていた。実際には22人が確認されており、正式に結婚したのが16人、妾が4人、その他が2人となっている。これは、イスラム教の教義として認められている。
アフリカにおける一夫多妻制

ブラックアフリカではイスラム教国以外でも、宗教とは関係なく一夫多妻制である国が多い。南アフリカ共和国第12代大統領のジェイコブ・ズマが一夫多妻を実践しているのは有名であり、2009年時点で三人の妻が居て、この三人の妻は公式行事等にも交互に出席している。ただし、南アフリカ共和国全体が一夫多妻を公認しているわけではなく、その習慣がある部族(ズマの出身部族もその一つ)に限って認められているものである。

夫の下に大家族を形成することが多いアジアや北アフリカと異なり、アフリカの一夫多妻婚では、妻たちは別々に暮らしていて、妻子の家を夫が順に訪れるという形態が一般的である。この種の一夫多妻が行われる地域には母系社会もしばしば見られる。
キリスト教における一夫多妻制

キリスト教においては、イエス・キリストが「1人の男子と1人の女子が結婚して一体となることがが定めたもうた秩序である」ことを公言し、そのことが『新約聖書』(マタイ伝19:4-6[注釈 1]及びマルコ伝10:5-9、ルカ伝16:18)に明記されたことで、キリスト教会では一夫一妻制が神の定めた制度であると認識され、それ以外での婚姻・性的関係は認めていない[2][3]

近世ヨーロッパの王室では、側室は許されなかったが、公妾があり、宗教上、婚姻関係ではないが、実態としては、複数の女性と関係をもった。
ミュンスター再洗礼派における一夫多妻制

16世紀ドイツ農民戦争後に台頭した再洗礼派の指導者のヤン・ファン・ライデンは、1534年ミュンスター包囲の際に一夫多妻制の導入を布告し、自らも15人の妻を所有した。理念上は旧約聖書を根拠とした原理主義的な主張だったが、最も大きな理由は、当時のミュンスターの男女比が男性1に対して女性が3倍以上という不均衡な状態にあったことにある[4]。この布告は強制力を持っており、市内の未婚の女性は強制的に結婚させられたが、市内の男女関係は混乱して諍いが多発した。
モルモン教における一夫多妻制

アメリカ合衆国のモルモン教においては、末日聖徒イエス・キリスト教会の第2代主管長のブリガム・ヤングによる約束の地へのモルモン開拓者の移動で信者約6千人を失い、準州ユタ(現ソルトレイクシティ)に到着した際に一夫多妻制(ポリガミー)をとったが、ウィルフォード・ウッドラフ(英語版)の神から中止を啓示されて1890年に廃止されたとされる。このことと引き換えにより、1895年に準州からユタ州に昇格した。ただし、合衆国上院公聴会にて第5代大管長のジョセフ・フィールディング・スミス(英語版)は一夫多妻状態にあることを認めており、モルモン教主流派においては少なくとも20世紀初頭まで、またアリゾナ州など他州との州境では、近年までみられたという。20世紀半ばにモルモン教主流派から分離したFLDS(モルモン教原理主義派)は、その後も一夫多妻の教義を保持している。
日本の一夫多妻制度

日本では、江戸時代までは上流社会において男子の家督跡取を生むという名目の元で「側室制度(そくしつせいど)」があった。「室」というのは妻女を指し、普通は正室(正妻)は1人、側室は複数人だったが、例外もあって厳密なものではなかった。跡取となる息子は彼女らの内の誰かが生母となるのである。男子の跡取を生んだ側室の扱いは、時代や身分によって大きく異なり多様であった。天皇や公家・武士に限らず、富裕商人が「」を持つ例は少なくなかった。

明治3年(1870年)に制定された明治国家最初の刑法典新律綱領』は、妾を妻と同じく二親等と認めることで、一夫多妻制の法整備をした。さらには妾を正妻に格上げすることも認められた。明治6年(1873年)8月の大政官指令では、戸籍上でも妾を妻の次に記載することが定められた。近代キリスト教国的な重婚の禁止を規定した民法の施行により一夫多妻制は制度的にはなくなったが、近代において地位ある男性が妻と別に愛人をもつ風潮は広くみられた。社会的地位があり、晩年まで愛人を囲った一例としては、渋沢栄一がいる(後述、「変遷・その他」)。アイヌの一部では裕福な男性が複数の妻を持つこともあったが、民法の施行により和人と同じく禁止された。

日本の大奥オスマン帝国ハーレムと比較した場合、皇太子(嫡子)を生んだ女性が母后として絶大な権力を握ることはなく、あくまで正室=御台所の生活のための役所であり、側室の立場は弱い(山本博文 『大奥学事始め 女のネットワークと力』 NHK出版、後述書p.112)。また大奥女中の気位は高く、相手が大名でも、敬称の「殿」を抜いて、「○○守」といった具合に呼び捨てにすらしていたため、必ずしも女性の地位が低かった訳ではない[5]

日本の一夫多妻を記録した海外の資料としては、中国の『魏志倭人伝』の他、ルイス・フロイス豊臣秀吉について、「その諸宮殿内に200人以上の婦人を所有している」と記述したが、誤解に基づくともされる(鈴木旭 『面白いほどよくわかる 戦国史』 日本文芸社 2004年 p.207)。
変遷・その他

春成秀爾は、縄文時代に一夫多妻や多夫一妻だったものが弥生時代になり一夫多妻にしぼられたとする(佐原眞 『体系日本の歴史1 日本人の誕生』 小学館 1987年 p.217)。例として、縄文期の千鳥窪遺跡では一夫多妻、加曽利遺跡では一夫多妻と多夫一妻、三ツ沢遺跡や女老山遺跡では多夫多妻が人骨から確認されている(同書 p.216 図)。

日本における一夫多妻制の社会を物語る文献記述として、『魏志倭人伝』には、「大人皆四五婦下戸或二三婦」とある。このことから、日本では3世紀頃から一夫多妻制の社会が確認できる[6]。ただし、大林太良はこの記述を「本格的な家父長型(の一夫多妻)ではなく、妻の労働力を求めて複数の妻をめとる型」にあたるものとし(『邪馬台国』、後述書)、原島礼二もこの考えを支持し、大人と下戸という身分において、妻の数に大差がないことを言及している(原島礼二 『〈日本史=16〉古代の王者と国造』 教育者 新装第1刷1985年(旧1刷79年) p.49)。森浩一は、倭人伝において、「妻が嫉妬をしなかった」という記述に関して、第一婦人を別格として、第二婦人以降は第一婦人に統轄されていた可能性を示唆しており(後述書 p.114)、分業体制(例として、第二婦人は洗濯、第三婦人は飯炊きなど)によって、嫉妬が表面化せずに運営できたとする(後述書 p114)。東南アジアの一部では最近までそうした形が見られたことを挙げ、むしろ第一婦人が旦那に対し、「そろそろ第二婦人を持ったらどうか」と勧めるのが普通であり、多く妻がいる方が第一婦人にとっては、プレステージが上がるとする(上田正昭 大林太良 森浩一 『対談古代文化の謎をめぐって』 社会思想社 1977年 p.114)。

奈良時代戸籍からも、一夫多妻が珍しくなかった事が確認される(佐原眞 『体系日本の歴史1 日本人の誕生』 p.216)。ただし、当時の戸籍には、「嫡子・庶子・妻・妾(しょう)」と記されるが、一説(関口裕子・父系擬制説)には、家の跡取りとしての嫡子制が庶民の家族に存在していたことや、妻・妾同居の家父長制家族が成立していた訳ではなく、対偶婚段階(婚姻史上、一夫一婦の前段階で、流動的・非排他的な一対の男女の結合)の複数の妻達の1人が戸籍上の妻であり、その子が嫡子とされ、以外は機械的に妾・庶子と記載されているに過ぎないとする(後述書 p.53)。


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