三里塚闘争での一坪共有地運動は、当初日本社会党(社会党)が推進したものであり、成田知巳や佐々木更三をはじめとする社会党議員らも参加した[2]。元新東京国際空港公団副総裁の山本力蔵が「影響は大変だった。社会党役員のそうそうたる名前がある。天下の政党がそんなことをやるとは夢にも思わなかっただけに脅威だった」と倦みながら述懐している[3]。社会党は砂川闘争の教訓から裁判で結論が出るまでに時間がかかって国もあきらめざるを得なくなると考えていた[4]。
運動は約700人の共有で始まり、一時約1200人にまで膨らんだが、空港公団の買収により約400人に減った。このため、三里塚芝山連合空港反対同盟は1983年に再分割運動を進めた結果、85年には土地所有者が約1400人に増加し、2008年は約1100人程度と推計される[5]。なお、この再分割の是非を巡る意見対立などから反対同盟は北原派と熱田派に分裂している。
脚注^ ⇒沖縄一坪反戦地主会
^ 成田空港建設阻止で社党議員が一坪地主 成田委員長ら55人登記『朝日新聞』昭和44年(1969年)12月6日朝刊、12版、15面
^ 東京新聞千葉支局/大坪景章 編『ドキュメント成田空港』東京新聞出版局、1978年、62頁
^ 北原鉱治『大地の乱 成田闘争―三里塚反対同盟事務局長の30年』 お茶の水書房、1996年、39頁。
^ 朝日新聞. “一坪共有地運動とは