一元論
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古代ヒンドゥー教の神学は一神教であったが、一人の最高神ブラフマンの側面として想定される多くの神々の存在を依然として維持していたため、厳密には一神教的崇拝ではなかった[16]

ヒンドゥー教の宗教文書であるヴェーダには、存在なき存在、息(生命)なき息(生命)、宇宙的存在に自己投影される単独の力への言及がある。ヒンドゥー教の中で最初に明確に絶対的一元論を唱えたのは、シャンカラの唱道するアドヴァイタ・ヴェーダンタである(アドヴァイタは「不二」すなわち非二元論の意)。これはヒンドゥー教の6つの哲学体系のうちの一部で、ウパニシャッド哲学を基礎にしており、究極的なモナドとしてブラフマンと呼ばれる無定型で神聖な基底があると見なす(梵我一如)。こうした一元論的な思考は、ヨーガや非二元論的タントラといった他のヒンドゥー教流派にも広がっている。

別のタイプの一元論はラーマーヌジャ学派やヴィシシュタ・アドヴァイタによるもので、世界が神(ヴィシュヌ)の一部であるとする。汎神論ないし万有在神論の一種であるが、この最高存在の中に魂や実体が複数含まれるとする。このタイプの一元論は一元論的有神論と呼ばれる。ヒンドゥー教では、内在的かつ超越的で普遍万能の最高存在としての人格神の概念が優勢である(一元論的有神論を絶対的一神教と混同しないこと。絶対的一神教は神を超越的とのみ考えるから、全てに現前する内在的な神の観念は不在である)。

ヒンドゥー教で一元論が広まったのは比較的新しく、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学(不二一元論)のシャンカラ(8世紀頃)、修正不二一元論のラーマーヌジャ(1017年 - 1137年)、ヴァラバハカルヤ・マハプラブ(1479 ? 1531年)、ニンバルカリーヤ(c.1130 - c.1200年)、チャイタニヤ・マハプラブ(1486 - 1534年)が一元論を唱えている。シャンカラはヒンドゥー教では「アートマン(魂、自我)が存在する」と主張し、仏教は「魂も自我もない」と述べている[17][18][19]。何人かの学者は、シャンカラの歴史的名声と文化的影響は数世紀後、特にイスラム教徒の侵略とその結果としてのインドの荒廃の時代に高まったと指摘している[20][21]

ヴェーダーンタ学派の中でもマドバ・アーチャリア(1238 ? 1317年)はドヴァイタ(二元論)を説いている。
仏教「三千大千世界」および「八大地獄」も参照

仏教では、ヒンドゥー教のリグ・ヴェーダに描かれる形而上学的実体とも言うべきブラフマンといった「かの一者 ted ekam」を認めない。

大乗仏教の中観派は世界の究極的な性質を、感覚的なものや他のものとは切り離せない「空」として表現する。一見、一元論のように見えるが、中観派の見解は究極的に存在する実体を主張することはない。その代わりに究極の存在に関する詳細な、あるいは概念的な主張が不条理な結果をもたらすとして解体される。現在、大乗仏教にのみ見られる少数派の唯識派の見解もまた一元論を否定している[22]

仏教の宇宙論では三千大千世界極楽、東方浄瑠璃世界、妙喜世界、八大地獄十界として複数の世界を規定することがある。密教におけるパーターラ等もある。
仏教と二元論「グノーシス主義」、「仏教とグノーシス主義」、および「仏教とキリスト教#仏教とグノーシス主義」も参照

1966年、仏教学者のエドワード・コンツェはメディアン会議において、アイザック・ヤコブ・シュミットの初期の提案を受けて執筆された論文「Buddhism and Gnosis」の中で[23]、大乗仏教とグノーシス主義との現象学的な共通点を指摘している[24][注釈 1]。克服されずに残っている、あるいは克服するためには特別な霊的知識を必要とする邪悪な傾向の存在を釈迦が説く限りにおいて仏教は、「反宇宙論」・「反宇宙的二元論」で知られているグノーシス主義の一派だとしている。

グノーシス主義は物理的世界、肉体的世界から「霊的知識・認識」によって救済されるとする反宇宙的二元論、極端な霊肉二元論をとる[28][29]。人間が肉体、宇宙等の非本来的なものによって阻害されているという反宇宙的二元論の立場から、物理的な宇宙を超える超越的存在と人間の本来的自己の本質的同一の「認識」を救済とみなす[30]

コンツェの8つの類似点に基づいて、ホーラーは解放のための洞察であるグノーシスとジュニャーナ、洞察力の欠如であるアグノーシスと無明によって、この世に閉じ込められるなどの類似点を挙げている[31]
西洋
ユダヤ教

ユダヤ教では、2つの相互に関連する理由から、神は創造内在的であると考えられている。

第一に、ユダヤ教には以下のような強い信念がある。「すべての被造物を産み出す神の力は〔創造の後も〕……現前している。わずか一瞬であれ神の力が被造物を見捨てれば、創造以前のような完全な無の状態に戻ってしまうことだろう」[32]

これと同時に、二番目として、ユダヤ教では神は唯一であるという公理がある。さらに神は完全に単一である。それ故、神の力は自然の中にあり、そして神の本質も自然の中にある。

ただし、ユダヤ教では、神はすべての物質的な被造物から分離されており、時間の外にあるということを銘記すべきである。ユダヤ教的伝統のもとにおける否定神学カバラにおけるツィムツームen:Tzimtzum)においては、神は、有限な世界が存在する概念的空間を準備するために、みずからの無限の本質を「収縮」させたとされる。
古代ギリシャなどモナドは「一番目」、「根源」、「本質」、「基礎」としてギリシャの哲学者によって参照される象徴であった

一元論には様々なタイプがあるが、それぞれの理論において究極とされている存在は、"Monad"(モナド)という言葉で呼び表される。モナドという言葉は「単一の、単独の」といった意味を持つギリシャ語 μ?νο? (モノス)に由来し、古代ギリシアのエピクロスピタゴラスによって最初に用いられた。

以下に掲げるソクラテス以前の哲学者が、世界を一元論的なものとして記述している。古代ギリシャではそれは、おおむね「アルケーは何か?」という問いに答えるような形で表現された。以下、論者とそれぞれの考えの主旨を記す。

ターレス - 万物のアルケーである。

アナクシマンドロス - アルケーは「アペイロン」すなわち無限な何かである。世界はなんらかの一つのものであるが、われわれがそれを知ることはできない。

アナクシメネス - アルケーはプネウマ(pneuma、気息、空気)である。

ピタゴラス - アルケーはである。

ヘラクレイトス - アルケーはである。火のもとで万物は流転する。

パルメニデス - アルケーは一である。世界は不動の完全な球面であり、不変、不可分である。

ミレトスのレウキッポスとその弟子 アブデラのデモクリトス - それはアトムと空虚(すなわちアトムと無アトム)である。

アナクサゴラス - アルケーは宇宙的精神である。

(以上に対して、エンペドクレスは地、空気、火、水の四元素説を唱えており、一元論ではない)

また、ソクラテス以降の哲学者の中では、

ティアナのアポロニウスなど新ピタゴラス派の人々が、モナドすなわち一者を核に置いた世界観を立てている。

ヌメニオスの著作に影響を受けた中期プラトン主義が、モナドすなわち一者から世界が流出したと述べている。

ネオプラトニズムも一元論的である。プロティノスの教えによれば、世界は神聖超越の神すなわち「一者」であり、この一者からさまざまな世界が流出する。ヌース(神なる精神)、プシュケー(宇宙の魂)、コスモス(世界)は、一者から流出したのである。

キリスト教

キリスト教はユダヤ教から生まれた一神教であるが、同時に、成立の初期段階で教父らによって古代ギリシャ哲学を取り込んでいる。


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