一ノ谷の戦い
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寿永3年(1184年)1月20日、頼朝が派遣した範頼義経率いる鎌倉軍に攻められて義仲は滅んだ(宇治川の戦い)。

この源氏同士の抗争の間に勢力を立て直した平家は、同年1月には大輪田泊に上陸して、かつて平清盛を計画した福原まで進出していた。平家は瀬戸内海を制圧し、中国四国、九州を支配し、数万騎の兵力を擁するまでに回復していた。平家は同年2月には京奪回の軍を起こすことを予定していた。

1月26日、後白河法皇は、頼朝に平家追討と平家が都落ちの際に持ち去った三種の神器奪還を命じる平家追討の宣旨を出した。平家の所領500ヵ所が頼朝へ与えられた。      



合戦の経過一ノ谷の戦い、狩野派

以下は『吾妻鏡』『平家物語』などを基にした巷間で知られる合戦の経過である。
前哨戦一ノ谷の戦い関係図拡大

寿永3年(1184年)2月4日、鎌倉軍は矢合せを7日と定め、範頼が大手軍5万6千余騎を、義経が搦手軍1万騎を率いて京を出発して摂津へ下った。平家は福原に陣営を置いて、その外周(東の生田口、西の一ノ谷口、山の手の夢野口)に強固な防御陣を築いて待ち構えていた。

同日、搦手を率い丹波路を進む義経軍は播磨国・三草山の資盛有盛らの陣に夜襲を仕掛けて撃破する(三草山の戦い)。前哨戦に勝利した義経は敗走した資盛、有盛らを土肥実平に追撃させて山道を進撃した。

2月6日、福原で清盛の法要を営んでいた平家一門へ後白河法皇からの使者が訪れ、和平を勧告し、源平は交戦しないよう命じた。平家一門がこれを信用してしまい、警戒を緩めたことが一ノ谷の戦いの勝敗を決したとの説がある(後述)。

迂回進撃を続ける搦手軍の義経は鵯越(ひよどりごえ)で軍を二分して、安田義定多田行綱らに大半の兵を与えて通盛教経の1万騎が守る夢野口(山の手)へ向かわせる(後述)。義経は僅か70騎を率いて山中の難路を西へ転進した。

平家物語』によれば、義経の郎党の武蔵坊弁慶が年老いた猟師を道案内として見つけてきた。猟師が鵯越は到底は越えることのできぬ難路であると説明すると、義経は鹿はこの道を越えるかと問い、冬を挟んで餌場を求め鹿が往復すると答えた。義経は「鹿が通えるならば、馬も通えよう」と言い案内するよう求めたが老猟師は自分は歳をとりすぎているとして息子を紹介した。義経はこの若者を気に入り、郎党に加えて鷲尾三郎義久と名乗らせた。

難路をようやく越えて義経ら70騎は平氏の一ノ谷陣営の裏手に出た。断崖絶壁の上であり、平家は山側を全く警戒していなかった。
開戦・生田の戦い

2月7日払暁、先駆けせんと欲して義経の部隊から抜け出した熊谷直実直家父子と平山季重らの5騎が忠度の守る塩屋口の西城戸に現れて名乗りを上げて合戦は始まった。平家は最初は少数と侮って相手にしなかったが、やがて討ち取らんと兵を繰り出して直実らを取り囲む。直実らは奮戦するが、多勢に無勢で討ち取られかけた時に土肥実平率いる7000余騎が駆けつけて激戦となった。

午前6時、知盛重衡ら平家軍主力の守る東側の生田口の陣の前には範頼率いる梶原景時畠山重忠以下の大手軍5万騎が布陣。範頼軍は激しく矢を射かけるが、平家は壕をめぐらし、逆茂木を重ねて陣を固めて待ちかまえていた。平家軍も雨のように矢を射かけて応じ鎌倉軍をひるませる。平家軍は2000騎を繰り出して、白兵戦を展開。範頼軍は河原高直、藤田行安らが討たれて、死傷者が続出して攻めあぐねた。そこへ梶原景時・景季父子が逆茂木を取り除き、ふりそそぐ矢の中を突進して「梶原の二度懸け」と呼ばれる奮戦を見せた。

義経と分かれた安田義定、多田行綱らも夢野口(山の手)を攻撃する。

生田口、塩屋口、夢野口で激戦が繰り広げられるが、平家は激しく抵抗して、鎌倉軍は容易には突破できなかった。
逆落とし鵯越の逆落とし『源平合戦図屏風』「一ノ谷」馬を背負う畠山重忠の銅像(埼玉県深谷市)

精兵70騎を率いて、一ノ谷の裏手の断崖絶壁の上に立った義経は戦機と見て坂を駆け下る決断をする。

『平家物語』によれば、義経は馬2頭を落として、1頭は足を挫いて倒れるが、もう1頭は無事に駆け下った。義経は「心して下れば馬を損なうことはない。皆の者、駆け下りよ」と言うや先陣となって駆け下った。坂東武者たちもこれに続いて駆け下る。二町(218メートル)ほど駆け下ると、屏風が立ったような険しい岩場となっており、さすがの坂東武者も怖気づくが、三浦氏の一族佐原義連が「三浦では常日頃、ここよりも険しい所を駆け落ちているわ」と言うや、真っ先に駆け下った。義経らもこれに続く。大力の畠山重忠は馬を損ねてはならじと馬を背負って岩場を駆け下った[1]。なお『吾妻鏡』によれば、畠山重忠は範頼の大手軍に属しており、義経の軍勢にはいない。

崖を駆け下った義経らは平家の陣に突入する。予想もしなかった方向から攻撃を受けた一ノ谷の陣営は大混乱となり、義経はそれに乗じて方々に火をかけた。平家の兵たちは我先にと海へ逃げ出した。

鎌倉幕府編纂の『吾妻鏡』では、この戦いについて「源九郎(義経)は勇士七十余騎を率いて、一ノ谷の後山(鵯越と号す)に到着」「九郎が三浦十郎義連(佐原義連)ら勇士を率いて、鵯越(この山は鹿の外は通れぬ険阻である)において攻防の間に、(平家は)商量を失い敗走、或いは一ノ谷の舘を馬で出ようと策し、或いは船で四国の地へ向かおうとした」とあり、義経が70騎を率い、険阻な一の谷の背後(鵯越)から攻撃を仕掛けたことが分る。これが逆落しを意味すると解釈されている。

九条兼実の日記『玉葉』では搦手の義経が丹波城(三草山)を落とし、次いで一ノ谷を落とした。大手の範頼は浜より福原に寄せた。多田行綱は山側から攻めて山の手(夢野口)を落とした。と戦況を書き残している。ここでは義経が一ノ谷を攻め落としたことは記しているが、逆落しの奇襲をかけたとは書いていない。

なお本項目の経過解説と画像では、逆落しの場所を現在この合戦の説明の際に主流になっている一ノ谷の裏手鉄拐山とする説(一ノ谷説)を採っているが、『平家物語』や上記『吾妻鏡』では義経の戦った場所は鵯越(一ノ谷から東方8キロメートル)となっており鵯越説も根強く、またそもそも逆落し自体が『平家物語』が創作した虚構であるという見方も有力である(後述)。


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