ヴャチェスラフ・モロトフ
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1930年代以降スターリンに対して革命時代の愛称である「コーバ」を使うことの許された唯一の人物であり、スターリンも彼のことを「モロトシヴィリ」「モロトシュテイン」といったあだ名で呼んだ。

妻はユダヤ人仕立屋の娘であり、ウクライナ共産党の書記や交通人民委員を務めたポリーナ・ジェムチュジナ(英語版)。孫にKGB議長の補佐官を務めた政治評論家ヴャチェスラフ・ニコノフがいる。
生涯
生い立ち

1890年3月9日にロシア帝国のヴャトカ県ヤランスク市クカルカ村(現在のキーロフ州ソヴィェツク(英語版))で誕生した。父のミハイルは領地管理人、母のアンナは裕福な商家の出という裕福な家庭に育った。1906年ロシア社会民主労働党に入党し、ボリシェヴィキのメンバーとなった。1909年カザン工業学校在学中に逮捕され、ヴォログダ流刑となる。1911年に刑期を終えてペテルブルク高等専門学校に入学した後、再びイルクーツク県に流刑された。1912年に創刊された党機関紙『プラウダ』には編集書記として参加し、この頃から「モロトフ」の名を使い始める。このほか「ジャージャ」(伯父)や「ミハイロフ」というペンネームも用いた。
ロシア革命活動家時代のモロトフ

1914年末にはアレクサンドル・シリャプニコフ(英語版)らと指導的活動組織「1915年ボリシェヴィキ集団」を結成する。1915年にイルクーツクから脱走し、地下活動に入る。1916年秋頃にはシリャプニコフらとペトログラードに潜伏し、ボリシェヴィキの国内組織である「党中央委員会ロシア・ビューロー」のメンバーとなった。1917年二月革命では臨時政府の支持に反対したため、しばらく党中央のメンバーから外された。しかしウラジーミル・レーニンが反臨時政府の立場を明確にすると再び中央に復帰し、急進的な革命を主張するようになった。十月革命ではペトログラード・ソビエト軍事委員会委員を務め、次いで北ロシア、ヴォルガドネツ各地方で宣伝活動を行った。1919年末にはニジニ・ノヴゴロド県ソビエト執行委員会議長に就任した。
中央委員会

スターリン(中央)、クリメント・ヴォロシーロフ(右)とともに(1937年)

アヴェル・エヌキーゼ(英語版)(左)、ミハイル・カリーニン(中央)と

1921年には党中央委員会書記局筆頭書記になり、政治局員候補となる。この年、モロトフはウクライナの党書記であったポリーナ・ジェムチュジナと結婚した。翌1922年、レーニンは書記局の強化のためにソビエト連邦共産党書記長のポストを新設し、スターリンを書記長に任命した。以降の党内闘争ではモロトフはスターリン派として活動し、レフ・トロツキーアレクセイ・ルイコフといった政敵の排除に大きな役割を果たした。1926年には正式に政治局員となる。以降もスターリン路線の忠実な支持者であり、コルホーズによる農業集団化や大粛清でも大きな役割を果たした。1930年には人民委員会議議長(首相)に就任し、以降11年間に渡ってその座を占め続けた。

また、グリゴリー・ジノヴィエフの失脚に伴い、1927年にはコミンテルン執行委員会幹部会メンバーに選出され、1929年ニコライ・ブハーリン失脚以後はコミンテルンの事実上の指導者となった。
モロトフ外交

独ソ不可侵条約に調印するモロトフ
(後列中央はヨアヒム・フォン・リッベントロップとスターリン)

訪独してリッベントロップらドイツの首脳と会談するモロトフ(1940年11月)

日ソ中立条約の調印に立ち会うモロトフ
(調印しているのは松岡洋右、そのすぐ後ろがスターリン。スターリンの左後にモロトフ)

スターリンとモロトフ

1939年5月にナチス・ドイツとの融和の為にアドルフ・ヒトラーの歓心を買おうと企図したスターリンによって、ユダヤ人であった外務人民委員(外相)のマクシム・リトヴィノフが解任された。モロトフは外務人民委員を兼務し、以降10年に渡ってソビエト連邦における外交の長として活動することになる。一方でユダヤ人であった妻のポリーナも交通人民委員を解任されている。8月には独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)を締結し世界中を驚愕させ、これに基づいた9月のポーランド侵攻第二次世界大戦の口火を切った。この協定にはポーランドの分割とバルト三国ソ連による併合を取り決めた秘密議定書が付属しており、モロトフはこれにもサインしている。また、ポーランド侵攻後に起きたポーランド軍将校の虐殺(カティンの森事件)には政治局の一員として賛成している。

1939年11月30日、カレリアの領有権をめぐってフィンランドとの冬戦争が勃発した。スターリンとモロトフは開戦に積極的であり、オットー・クーシネンを首班とするフィンランド民主共和国の樹立を目論んでいた[3]。12月11日に国際連盟がフィンランドからの撤兵を求める最後通告を送ると、翌日にモロトフは拒否[4]。12月14日、国際連盟総会でソ連の除名が決定された[5]

ソ連空軍は侵攻初日からヘルシンキを含む[6]フィンランド各地の市街地を空爆した。フィンランド政府がこれに抗議すると、モロトフは「ソ連機は(民間人を攻撃しているのではなく)空からパンを投下しているのだ」と発言した。以後、フィンランド人はこれを皮肉って、焼夷弾のことを「モロトフのパン籠」と呼ぶようになった。さらにフィンランド軍は、対戦車兵器として用いた火炎瓶に「モロトフ・カクテル」とあだ名をつけ、「パン」への「返礼」とした。冬戦争ではモスクワ講和条約によってフィンランドに領土割譲要求を呑ませることに成功し勝利したが、小国フィンランド相手に多大な損害を出し苦戦したソ連の威信は大いに傷つき、国際連盟からも追放された。

1940年11月にベルリンを訪問したモロトフは、ヒトラー及びリッベントロップ外相らと会談し、融和方針を確認した。11月13日にイギリス空軍による爆撃があった為防空壕に避難して会談を続けたが、リッベントロップが「イギリスの敗北は必至」と言ったところ、モロトフは「いま上空を飛んで爆弾を落としているのはどこの飛行機か」と応酬した[7]。リッベントロップはやや面食らったがすぐに冷静さを取り戻し、日独伊三国同盟にソ連を加えて四国同盟にする計画を説明し始めたという[7]


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