ヴォー・グエン・ザップ
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ヴォー・グエン・ザップ
Vo Nguyen Giap 武元甲/武原甲/武源甲
第一次インドシナ戦争時のザップ(1949年)
渾名赤いナポレオン
生誕 (1911-08-25) 1911年8月25日
フランス領インドシナ連邦クアンビン省レトゥイ県
死没 (2013-10-04) 2013年10月4日(102歳没)
ベトナム社会主義共和国ハノイ市108軍中央病院207号室
所属組織 ベトナム人民軍 (Q?ND)
軍歴1944年 - 1991年
最終階級大将
除隊後ベトナム共産党党員
署名
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ヴォー・グエン・ザップ
各種表記
漢字チュノム:武元甲/武原甲/武源甲
北部発音:ヴォー・グエン・ザップ
日本語読み:ぶげんこう
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ヴォー・グエン・ザップ(ベトナム語:Vo Nguyen Giap / .mw-parser-output .vi-nom{font-family:"Nom Na Tong","Han-Nom Gothic","Han-Nom Ming","HAN NOM A","HAN NOM B","TH-Khaai-TP0","TH-Khaai-TP2","TH-Khaai-PP0","TH-Khaai-PP2","TH-Sung-PP0","TH-Ming-JP0","TH-Ming-JP2","TH-Sung-PP2","TH-Sung-TP0","TH-Sung-TP2","TH-Sy-P0","TH-Sy-P2","Ming-Lt-HKSCS-UNI-H","Ming-Lt-HKSCS-ExtB","FZKaiT-Extended","FZKaiT-Extended(SIP)","FZKaiS-Extended","FZKaiS-Extended(SIP)","Sun-ExtA","Sun-ExtB","MingLiU","MingLiU-ExtB","MingLiU_HKSCS","MingLiU_HKSCS-ExtB","SimSun","SimSun-ExtB",sans-serif}.mw-parser-output .vi-nom .ext{font-family:"Han-Nom Gothic","Han-Nom Ming","Han-Nom Minh","TH-Khaai-TP2","TH-Khaai-PP2","TH-Ming-JP2","TH-Sung-PP2","TH-Sung-TP2","TH-Sy-P0","TH-Sy-P2","Sun-ExtB","MingLiU HKSCS-ExtB","Ming-Lt-HKSCS-ExtB","HanaMinB","Han-Nom Kai",sans-serif}武元甲[1][2][3][4] / 武原甲[5][6][7] / 武源甲[8]1911年8月25日 - 2013年10月4日[9])は、ベトナム軍人政治家ベトナム共産党政治局員。ベトナム人民軍(Q?ND)総司令官。最終階級は大将であった。

優れた軍事戦術家であったザップは機動性を重視した戦略を好み、その動きは神出鬼没と呼ばれた[10]フランス植民地支配の際、ディエンビエンフーの戦いによって、フランス領インドシナからベトナムを解放し、ベトナム戦争ではベトナム人民軍の指導者としてアメリカ軍及び南ベトナム軍との戦いを指揮し、ベトナムを再統一する大きな原動力となった。その名采配から、西側諸国からは「赤いナポレオン」と呼ばれ[11][12]、ベトナム人民からは「ベトナム救国の英雄」として、ホー・チ・ミンと共に、深い敬愛と尊敬を集めた[13]
経歴
独立運動ザップとホー・チ・ミン(右)

1911年(1912年説あり[14])、フランス領インドシナクアンビン省レトゥイ県に生まれる[15]。父のヴォー・クアン・ギエム(Vo Quang Nghiem、漢字:武光厳)と母のグエン・ティー・キエン(Nguy?n Th? Kien、漢字:阮氏堅)[16] は地主であり、何不自由ない幼少期を過ごした。父は炭鉱職員として働く傍ら独立運動家でもあり、ザップが生まれる前にも2度独立運動に参加していた。しかし1919年、植民地政府の転覆計画にかかわったとして逮捕され、その数か月後に獄死した。また同時期にザップの姉も逮捕され、間もなく釈放されたものの数週間後に病死した[17]

兄から自宅で教育を受けたのち、1924年、当時の首都フエ国学(国立リセ)に入校した[16]。この時、フエで「川辺の爺さん」と呼ばれていたファン・ボイ・チャウとも会っており、チャウの講義を聞いている。なお、のちに南ベトナムの大統領となるゴ・ディン・ジエム(父が学校の設立者)、ホー・チ・ミンも同学校の出身である[18]

しかし1926年、学生組織を組織したことで退学処分となり、帰郷。このころ、地下組織であった新ベトナム革命党に入党し、そこで共産主義思想に触れた[19]。フエに戻ったザップは学生運動に身を投じるも逮捕。懲役2年の判決を受けラオ・バオ刑務所(en)に収監される。13か月後、証拠不十分で釈放[20] されたザップはインドシナ共産党に加入[16]。反政府デモに参加したことで、2年間刑務所に服役する。

出所後の1933年、インドシナ大学(現ベトナム国家大学ハノイ校)(アルベール・サロ学校との説もあり[21])に入学[16][22] 。法学と政治・経済を学んだ。

在学中、下宿先であった大学教授[23] の娘グエン・チー・ミン・ジャンと出会う[24]。ともに独立運動に参加していた二人は相思相愛となり、1938年5月に結婚。翌年、一女ホン・アンをもうける[24][25]

在学中のザップは、学生運動に熱中するあまり学業をおろそかにしてしまい、行政法審判官の試験に落第してしまった。法律家としての将来を閉ざされたザップは、ハノイ市内にあるタンドン学校の歴史教師として教鞭を振る傍ら、ヒュン・チュク・クアン(en)の「人民の声」をはじめ多くの革新系新聞にベトナムの社会・経済情勢、国際問題に関する多数の記事を寄稿した。また、自らも地下新聞「Hon Tre Tap Moi」やフランス語新聞「Le Travail」(これにはファム・ヴァン・ドンも参加している)を発行[24]。同じく共産党員であったチュオン・チンと『農民問題』を共著した。

また同時期、ザップが興味を持つようになったのが軍事学・哲学であった。


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