ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
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11歳ごろの作曲譜も発見された[5]。父とともに音楽家としてザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレド伯の宮廷に仕える一方で、モーツァルト親子は何度もウィーン、パリロンドン、およびイタリア各地に大旅行を行った。これは神童の演奏を披露したり、よりよい就職先を求めたりするためであったが、どこの宮廷でも就職活動に失敗する。1762年1月にミュンヘンへ、9月にウィーンへ旅行したのち、10月13日シェーンブルン宮殿マリア・テレジアの御前で演奏した際、宮殿の床で滑って転んでしまい、6歳のモーツァルトはそのとき手を取った7歳の皇女マリア・アントーニア(のちのマリー・アントワネット)に「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる」と言ったという逸話がある。7歳のときフランクフルトで演奏した際に作家のゲーテがたまたまそれを聴き、そのレベルは絵画でのラファエロ、文学のシェイクスピアに並ぶと思ったとのちに回想している[6]
巡業と音楽教育

1769年から1771年にかけて第1回目のイタリア旅行を行い、父とともにミラノボローニャローマを巡回する。システィーナ礼拝堂では、門外不出の秘曲とされていたグレゴリオ・アレグリ(Gregorio Allegri)の9声部の『ミゼレーレ』を聴き、暗譜で書き記したといわれる。ナポリでは数十日に及ぶ滞在を楽しみ、当時大変な話題の発掘されてからまもない古代ローマ遺跡ポンペイを訪れている[注釈 3]。イタリア旅行は3度に及ぶが、中でも、ボローニャでは作曲者であり教師でもあったジョバンニ・バッティスタ・マルティーニ神父に、対位法やポリフォニーの技法を学んだ。教育の成果はすぐに現れなかったが、15年後の円熟期にモーツァルトは対位法を中心的な技法としていた[7]。モーツァルトはほとんどの音楽教育を外国または旅行中に受けた。

1770年にはローマ教皇より黄金拍車勲章を授与される。また同年、ボローニャのアカデミア・フィラルモニカの会員に選出される。しかしこうした称賛は象徴的なものにすぎず、たとえば同年作曲された初のオペラ『ポントの王ミトリダーテ』K. 87は大絶賛されたが、その報酬はわずかなものであった[8]
マンハイム時代

1777年にはザルツブルクでの職を辞しミュンヘン、次いでマンハイムへ移る。同年10月、パリに行く途中にアウクスブルクに立ち寄り、彼がベーズレと呼んでいた従妹のマリア・アンナ・テークラ・モーツァルトと再会した。マリアは父・レオポルトの弟の娘で、このとき、2人は互いに惹かれあい、モーツァルトは初めて肉体関係を持った[9]。マンハイムでは、正確な演奏、優雅な音色、クレシェンドで有名だったマンハイム楽派の影響を受ける。モーツァルトは「気取ったマンハイム様式」とも呼んでいた[10]

モーツァルトはマリアに未練を残しつつも、マンハイムの音楽家フリドリン・ウェーバーの娘、アロイジア・ヴェーバーに恋し、結婚の計画を立てるが[11]、父・レオポルトは猛然と反対し、1778年2月にはパリ行きを命じる[注釈 4][12]。3月から9月までのパリ滞在は悪夢であった[10]。受け入れ先のシャボー公爵夫人からは冷遇され、また稼ぎもよくなかった[注釈 5]。また自邸に招いて演奏させた人々は絶賛するが、報酬は出し惜しみした。交響曲第31番ニ長調(K297)「パリ」を作曲する。7月3日、同行した母がパリで死去した。
ウィーン時代少年時代のモーツァルト

1781年3月、25歳のモーツァルトはザルツブルク大司教・ヒエロニュムス・コロレドの命令でミュンヘンからウィーンへ移るが、5月9日、コロレドと衝突し解雇され、ザルツブルクを出てそのままウィーンに定住を決意する。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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