ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

モーツァルト自身は手紙の中で再三「れっきとしたドイツ人として」「ドイツ民族の栄光に寄与できればうれしい」などと繰り返しており、「われわれドイツ人が、ドイツ風に考え、ドイツ風に演技し、ドイツ語で語り、ドイツ語で歌うことを今やっと始めたのだとすると、それはドイツにとって永遠の汚点となるに違いない」という強烈なドイツオペラ宣言まで行っている[32]。また、ショパンの生前、その生国の新聞が「モーツァルトがドイツ人の誇りならショパンはポーランド人の誇りである」と絶賛したのも有名である。また、書簡の中で自らをオーストリア人と述べる言葉がまったくない点も、上記のような国体情勢(大公領としてのエリア区分でしかなかった当時のオーストリアには国家・国民という概念は希薄だったうえに、モーツァルトは、当時はその域外であったザルツブルク出身者であり、オーストリアに在住したのは最後の10年にすぎない)からはやむをえない点である。同じ論法だとマリア・テレジアハイドンもれっきとしたドイツ人だが、こうした、どこまでがドイツ人なのか、ドイツ民族なのか、という問題があるにもかかわらず(これは、オーストリア人ヒトラーや伊仏露など、周辺国だけでなく米国も含まれる海外ドイツ系住民地域など非常に多くの難しい課題をはらんでいる)、結果としてモーツァルトだけがノミネートされたことは議論を呼ぶことになった。現在はザルツブルクやウィーンで、モーツァルトはオーストリア人の英雄として内外に伝えられている。
逸話

モーツァルト一家の親しい友人であり、ザルツブルク大司教に仕えたトランペット奏者、ヴァイオリニスト、チェリストのシャハトナーは
1763年のある日、わずか6歳のヴォルフガングがヴァイオリンを弾こうとしているところに出くわし、彼から「あなたのヴァイオリンは僕のよりも8分の1ピッチ高く調律されていますよ」と言われた。シャハトナーは最初それを聞いて笑ったが、ヴォルフガングの異常な感覚能力と音の記憶力を知っていた父がヴァイオリンを取ってきて「この子の言う通りか確かめてみてくれ」と言うので確かめてみると、ヴォルフガングの言う通りだったという[33]

シャハトナーとの逸話はほかにも残されており、彼はマリアンネ・モーツァルトに向けた1792年4月の手紙にて、次のように書いている。
10歳ころまでの彼は、独奏のトランペットに常軌を逸した恐怖感を抱いていました。ある日あなたのお父さんがこの恐怖感を取り除くべく、近くでトランペットを吹いてやってくれ、と仰ったのでそうしてみたところ、あの甲高い音色を聞くとたちまち蒼白になり、気を失いそうになりました。あのまま続けていれば彼は引付を起こしていたでしょう…(中略)あなたは私がとても良いヴァイオリンを持っていたのをご存じのはずです。亡きヴォルフガングはそれの音色が柔らかくまろやかだというので、『バターみたいなヴァイオリン』と呼んでいました。[34]

音楽てんかん、トランペット恐怖症のどちらかが疑われるが、幼いころにサイレンや航空機などの大きな音を出すものを嫌う子どもは珍しくない。モーツァルトの文献を探しても、既往症であるてんかんの疑惑に対する言及や暗示は見つかっていないため、彼には持続的な恐怖心があり、それが恐怖症へ発展したと考えるのが妥当である。

姉・ナンネル(マリア・アンナ)がウォルフガングのことをよく知っていた人から回想文を集めて出版された本には、次のような証言がある。
彼は最も複雑な音楽の中でさえ最小の不協和音を指摘し、ただちにどの楽器がしくじったかとか、どんなキーで演奏すべきだったかというようなことまで口にした。演奏中の彼は最小の夾雑音にさえいらだった。要するに音楽が続く限りは彼は音楽そのものであり、音楽が止むとすぐに元の子どもに戻るのだった。[35]

1763年5月19日付の「アウクスブルガー・インテリゲンツ・ツェッテル」紙にも、ウォルフガングについての記事が載せられている。
…私は同じく、ある時は鍵盤の低音で、またあるときは高音で、そして可能なすべての楽器で演奏される音を別の部屋で聞かされて、たちどころに演奏された音符名を伝える彼を見聞きした。その通り、彼は鐘や大時計の音を聞き、懐中時計の音さえ聞きながら、聞き取った音をただちに口にすることができたのである…[35]

こういった彼の異常な感覚能力についての話はほかにも数多く伝えられており、たとえばデインズ・バリントンというイギリスの法律家は「あるロンドン王立協会への手紙」にて、モーツァルトが大バッハの未完のフーガの主題と展開を完全に記憶しており、いかに即座に再現し弾き終えたかを語っている。#巡業と音楽教育の項で触れた、システィーナ礼拝堂での一件はモーツァルトの逸話として非常に有名であるが、それと併せてこういった証言の数々は彼の才能を示すひとつの証左となっている。

協奏曲などを手掛けていたにもかかわらず、フルートを嫌っていた[36]。ドゥジャンという資産家から200フローリンで「小さくて軽く短い協奏曲を3曲と四重奏曲を何曲か、フルートのために作って」くれるように注文を受けたが、結局出来上がったのは協奏曲2曲(しかも1曲は旧作のオーボエ協奏曲からの編曲)と3曲のフルート四重奏曲のみであった。これにドゥジャンが怒り、報酬は半分以下の96フローリンしか支払われなかった。この仕事中、モーツァルトは父レオポルドに宛てた手紙で「我慢できない楽器のために、作曲を続けるのはうんざり」と書いている。モーツァルトがフルートを嫌っていた理由としては、当時のフルートはまだテオバルト・ベームによる改良以前で楽器としての性能が低かったため、とする説が有力である。

モーツァルトを扱った作品

モーツァルトとサリエリ - 1830年プーシキンの戯曲。

1897年リムスキー=コルサコフがオペラ化(『モーツァルトとサリエリ (オペラ)』)。


哀しみのシンフォニー - シルヴィ・ヴァルタン1972年シングル曲(事実上のフレンチ・ポップス)。交響曲第40番の第一楽章の有名なメロディイタリア語歌詞を乗せて歌唱。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:131 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef