ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
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ヨーゼフ・ランゲ作『鍵盤に手を置くモーツァルト』(首より下未完成[注釈 22])妻・コンスタンツェいわく「モーツァルトにもっともよく似た肖像画[25]

信頼性があるのは、義兄(アロイジアの夫)のヨーゼフ・ランゲによるスケッチである(右下)。
人柄

優秀な音楽家としての顔を持ちながら、その実は猥談を好み、妻のコンスタンツェに宛てた卑猥な内容の手紙が数多く残されている。

女性小説家であるカロリーネ・ピヒラー
(英語版、ドイツ語版)は「私がよく知っていたモーツァルトもハイドンも、高級な知能をまったく示さない交友関係の人たちだった。凡庸な精神という素質、おもしろみのない冗談、そしてモーツァルトにおいては軽薄な生活が彼らとの交遊関係でみられたすべてであった。しかし、この取るに足らない殻の中には、素晴らしいファンタジー、メロディー、ハーモニー、そして感情の世界が隠されていた」と書いている。

モーツァルトが書いたとされる手紙は多く残されているが、手紙は最大5か国語を使い分けて書かれている。また友人などに宛てた手紙の中においては、何の脈絡もなく世界の大洋や大陸の名前を列挙し始めたり、文面に何の関係もない物語を唐突にかつ仔細に書き出したりしていた。
マリア・アンナ・テークラ(ベーズレ)の鉛筆画

モーツァルトは従妹に排泄にまつわる駄洒落トイレのユーモア)にあふれた手紙を送ったことがある[注釈 23]。いわゆる「ベーズレ書簡」といわれるもので、「あなたの鼻に糞をします」「ウンコで君のベッドを汚してやるぞ!僕のおしりが火事になった!どういうこと!知ってるぞ、みえるぞ、なめてやろうか、ん、何だ?ウンコが出たがってる?そう、そうだウンコだ。俺は変態だ!」などの記述がある[26]。従妹はマリア・アンナ・テークラ・モーツァルトといい、父・レオポルトの弟の娘で、ヴォルフガングがこの女性と従妹以上の恋愛関係にあったともされる[9]

ベーズレ書簡はヴォルフガングの死後、息子たちによって破棄を望まれたが、現在6通が保管されており、これらの手紙は彼の男性的で激しい部分や、言葉による旺盛な想像力を示している。ベーズレの残された数少ない銅版画は、彼女の素晴らしい美貌を示しているが、この点は彼女の強みとはならず、彼女がかなり移り気な女性であったことがのちに証明されることとなった。

遠く離れた妻のコンスタンツェにあてた手紙では、そういった言葉づかいは見当たらず、繊細さや優しさを帯びた手紙となっている。ほかに『俺の尻をなめろ』(K.231、K.233)というカノンも作曲するなど、この類の話は彼にスカトロジーの傾向があったとしばしば喧伝されるエピソードであるが、当時の南ドイツでは親しい者同士での尾籠な話は日常的なものでありタブーではなく[27]、またモーツァルトの両親も大便絡みの冗談をいっていた[28]

19世紀の伝記作者は、スカトロジーの表現を無視したり破棄したりしてモーツァルトを美化したが、現在ではこうした表現は彼の快活な性格を表すものと普通に受け止められている。また、上掲の「俺の尻をなめろ」"Leck mir den Arsch"、"Leck mich im Arsch"は英語の"Kiss my ass"(「くそったれ!」など)と同類の慣用表現であり、下品ではあるが必ずしもスカトロジー表現とはいえない。

そのほか冗談好きな逸話としては、ある貴族から依頼を受けて書いた曲を渡すときに手渡しせず自分の家の床一面に譜面を並べ、その貴族に1枚1枚拾わせたというエピソードがある。

精神医学界には、こうした珍奇な行動がサヴァン症候群によるものであるという憶測もある[29]

九柱戯ボウリング)やビリヤードを好み[注釈 24]、自宅にはキャロムテーブルを置きビリヤードに興じていた[30]。ビリヤード台の上に紙を置き、そこで楽譜を記していたというほどである。賭博にもよく興じたという。高価な衣装を好み、立派な住居を求めて何度も引っ越しをした。モーツァルトの晩年の借金の原因として浪費に加えて「ギャンブラー説」を唱える人もいるが、確かなことは不明である[31]

ドイツ人論議

2006年、ドイツのテレビ局ZDFが「史上もっとも偉大なドイツ人は誰か」というアンケートにモーツァルトをノミネートしたことに在独オーストリア大使館が抗議したことから、議論が巻き起こった。

ザルツブルクに生まれ、後生はウィーン住まいであったことを現在の国家にあてはめると大使館の主張には理があるが、局側は、当時オーストリアという国家は存在しなかったと一蹴。これに対してオーストリア側は「ではドイツという名の国家も存在しなかったのだから、ゲーテはドイツ人ではない」と反論した。厳密には当時はハプスブルク家を皇帝に戴いて「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」(これをドイツ帝国と略称することもある)が存続していたが、実態は統率の緩い国家連合と化しており、ナポレオン戦争以後は新しく成立したオーストリア帝国を議長国とするドイツ連邦に衣替えしている。実際の国家主権はその下に属するザルツブルク大司教領、ウィーンを含むオーストリア大公領バイエルン公国プロイセン王国ザクセン選帝侯領などの大小のドイツ人諸邦が持っていた。そして、このオーストリア大公領が国号でなく、この称号も併せ持つ神聖ローマ皇帝ハプスブルク家の実質支配地域という曖昧な存在であったこと、つまり当時この地域に国号は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」しか存在しなかった、という点がZDFの論拠となっている。

モーツァルト自身は手紙の中で再三「れっきとしたドイツ人として」「ドイツ民族の栄光に寄与できればうれしい」などと繰り返しており、「われわれドイツ人が、ドイツ風に考え、ドイツ風に演技し、ドイツ語で語り、ドイツ語で歌うことを今やっと始めたのだとすると、それはドイツにとって永遠の汚点となるに違いない」という強烈なドイツオペラ宣言まで行っている[32]


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