ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
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モーツァルトの作品の多くは、生計を立てるために注文を受けて書かれたものである[注釈 17]。モーツァルトの時代に限らず、何世紀もの間、芸術家は教皇や権力者などのパトロンに仕えることで生計を立てていた[17]。18世紀になってからはパトロンから市場に移ることが徐々に可能になっていく。幼いころから各地を巡業した理由のひとつが就職活動であり、ベートーヴェンのようにフリーランスとして生きていくことは非常に困難な時代であった[注釈 18]。したがって、モーツァルトの作品はその時代に要求された内容であり、たとえば長調の曲が多いのはそれだけ当時はその注文が多かったことの証でもある。実際、父の死後は依頼者のない作品が生まれている。これは、聴衆の嗜好に配慮せよとの父による規制がなくなったため、モーツァルト自身の目指す音楽に向かうことが可能になったからである。交響曲などがそれにあたる。

思想的には、フリーメイソンがパトロンであったこともあり、作品では特に魔笛、ピアノ協奏曲第20番にその影響が指摘されている[注釈 19]
楽器

モーツァルトの時代、現在でいう「ピアノ曲」、ピアノ・ソナタピアノ協奏曲などはドイツ語圏では通常「クラヴィーア」と書かれていた。クラヴィーアとは鍵盤楽器のことであるが、有弦鍵盤楽器を指し、フォルテピアノチェンバロ(ハープシコード、クラヴサン)、クラヴィコードのいずれかで演奏される選択の自由があったが、協奏曲などは編成からフォルテピアノかチェンバロで演奏された。今日ではチェンバロで演奏される機会も増えている。

モーツァルトの初期の数作品はチェンバロのために書かれており、彼はレーゲンスブルクの製作者フランツ・ヤコブ・シュペートが作ったピアノに馴染んでいた[18]。 後にモーツァルトはアウクスブルクを訪れてシュタインピアノに感銘を受け、そのことを父親への手紙に書いている[18]。1777年10月22日にモーツァルトは、シュタインが提供した楽器で3台のピアノのための協奏曲(K.242)を初演した[19]。アウクスブルク大聖堂のオルガン奏者デンムラーが第1パートを演奏し、モーツァルトが第2パート、そしてシュタインが第3パートを演奏した[20]。1783年のウィーン在住時に、彼はワルターの楽器を購入した[21]。モーツァルトが自分のワルターのフォルテピアノに愛着していた様子は、レオポルト・モーツァルトの「この喧騒を説明するのは不可能だ。おまえの弟のピアノは、彼の家から劇場または他の誰かの家へと少なくとも12回移動されたのだ。」という記述からわかる[22]

モーツァルトが自身の作品でフォルテピアノのためと明記したのは、1785年に出版した作品が初めてであった。チェンバロはバロック音楽に限定されると思われることが多いが、ウィーンでは19世紀初頭までチェンバロが製作されており、ベートーベンの作品の中にもマンドリンとチェンバロのためのソナチネと言う作品が2つあるほどである。
人物像モーツァルト(1789年の肖像画)1777年のモーツァルトGiovanni Battista Martiniの依頼による[23]
名前

モーツァルトの洗礼名(ラテン語)は、ヨハンネス・クリュソストムス[注釈 20]・ウォルフガングス・テオフィルス[注釈 21]・モザルト(Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart)である。当時はイタリア音楽家がもてはやされており、モーツァルトは「テオフィルス」よりもラテン語で意訳した「アマデウス(Amadeus)」を通称として使用していた。ただしモーツァルトはAmadeusではなくイタリア語風のアマデーオ(Amadeo)をおもに使っていたともいわれ[24]、ほかフランス語風のアマデ(Amade)、ドイツ語風のゴットリープ(Gottlieb)も用いたことがある。
容姿

肖像画や銅像ではいずれも「神童」に相応しい端麗な顔や表情、体型をしており子供の姿で描写されたものも多いが、実際の容姿に関しては諸説ある。最初の伝記作者ニーメチェク(英語版)によれば、身体的に見て「小柄で顔つきは楽しげだったが、情熱的な大きな目を除けば何ひとつ、その突出した才能を示すものはなかった」という。有力なのは「12歳の時にかかった天然痘の痕がいくつもあり、丸鼻で近眼」というものである。本当の顔立ちを知る手がかりとなるはずだったデスマスクは、彼の死後すぐに製作を依頼し、美術陳列館のシュトリテッツ伯爵に石膏で型取られたことが義妹のゾフィー・ハイブルにより証言されているが、その後は行方不明になり現在まで発見されていない。19世紀後半には、葬儀の後の整理の際コンスタンツェがうっかり落として割ってしまったと語られ、いまだに事実のように伝えられているが、実際にはそのような記録はなく憶測に過ぎない。体躯に関しても「小柄である」「肥満が著しかった」などと、様々な説があったが、検死による実際の身長は163センチ程であり、当時の西洋人としては中背程度である。


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