モーツァルトは1791年7月に、自分がアクア・トファーナ(別名ナポリ水とも呼ばれた亜砒酸が主要成分の水溶液で、当時の美顔、美白薬だが毒としても有名だった)で毒殺されかけていると考え、それを妻に伝えている。実際、妻の手紙に「私を嫉妬する敵がポーク・カツレツに毒を入れ、その毒が体中を回り、体が膨れ、体全体が痛み苦しい」とまでもらしていたと言う。当時は遺体のむくみが毒殺の証拠だと考えられており、モーツァルトの遺体がひどくむくんでおり、それによって後述の、サリエリに関する噂が一気に広まった。
また、死後ウィーンの新聞は「毒殺されたのではないか」と報じた。1820年ごろになると、ウィーンでは「ロッシーニを担ぐイタリア派とウェーバーを担ぐドイツ派の論争・対立の中でサリエリがモーツァルトを毒殺した」という噂が流行した。
サリエリは重度の抑うつ症となり、自分の喉を切ろうとして、数多くの背任をまた非難されることになった。この噂にサリエリは1825年に死ぬまで悩まされた[注釈 11]。 葬儀の日取りは「12月6日説」と「12月7日説」の2つがある[注釈 12]。遺体はウィーン郊外のサンクト・マルクス墓地の共同墓穴に埋葬された。誰も霊柩馬車に同行することを許されなかったため、実際に埋葬された位置は不明である[注釈 13]。この簡素でそっけない埋葬は、晩年のモーツァルトが後援者たちから軽視されていたことの表れだと考えられる[15]。 没後100年の1891年、中央墓地(ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスら著名音楽家が多数眠る墓地)に当時サンクト・マルクス墓地にあった「モーツァルトの墓とされるもの」が記念碑として移動した際、またもや位置が分からなくなってしまった。現在サンクト・マルクス墓地にある「モーツァルトの墓とされるもの」は、移転後に墓地の看守が打ち捨てられた他人の墓の一部などを拾い集めて適当な場所に適当に作ったものである[注釈 14]。なお、サンクト・マルクス墓地は1874年に新たな中央墓地が建設されたことをもって新規の受け入れを停止している。ヨハン・シュトラウス2世の弟ヨーゼフ・シュトラウスも最初はここに埋葬されていた(1909年に中央墓地に移設)。 現在、国際モーツァルテウム財団(ザルツブルク)にはモーツァルトのものとされる頭蓋骨が保管されている。頭蓋骨に記された由来によれば、埋葬後10年目にモーツァルトを埋葬した墓地は再利用のため整理され、遺骨は散逸し、頭蓋骨だけが保管され、以来複数の所有者の手を経て1902年に同財団によって収蔵された。遺骨の真贋についてはその存在が知られた当初から否定的な見方が多いが、2004年にウィーン医科大学
葬儀と墓
作品詳細は「モーツァルトの楽曲一覧」を参照
作品総数は断片も含め900曲以上に及ぶ。作品はあらゆるジャンルにわたり、声楽曲(オペラ、教会用の宗教音楽、歌曲など)と器楽曲(交響曲、協奏曲、室内楽曲、クラヴィーアソナタなど)のどちらにも多数の作品が残されている。
作品を識別するには、音楽家のルートヴィヒ・フォン・ケッヘルが分類した作曲順の目録であるケッヘル番号(K.+数字)が使われる[注釈 16]。モーツァルト自身は1784年以降に自作の作品目録をつけている。1784年より前の作品やモーツァルト自身の作品目録に載っていない作品には、作曲の時期がはっきりしないものもある。
代表的な作品
5大オペラ:『後宮からの誘拐』『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』『コジ・ファン・トゥッテ(女はみなこうしたもの)』『魔笛』
宗教音楽:大ミサ曲、レクイエム、『アヴェ・ヴェルム・コルプス』
交響曲:第25番、第29番、第35番『ハフナー』、第36番『リンツ』、第38番『プラハ』、第39番、第40番、第41番『ジュピター』