ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ
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ヤルゼルスキ自身は先立って行われた円卓会議での合意の下、ポーランドの初代大統領に選出され、1990年12月まで大統領を務めたが、初の自由選挙で大統領に選出されたかつての政敵、ヴァウェンサにその座を譲って政界を引退した。しかし12月22日のヴァウェンサの大統領就任式には招待されず、ポーランド亡命政府がヴァウェンサにレガリアを引き渡すところをテレビで見る羽目となった。
晩年ヤルゼルスキ(81歳時)
2006年の撮影

政界を引退してからのヤルゼルスキは回想録を出版した後、民主化されたポーランド政府から年金を受け取って生活していた。しかし2007年4月17日、1981年の戒厳令布告の際の民主化弾圧の責任を問われ、ポーランド検察によって起訴された。

しかし高齢であることを考慮され、自宅から毎月裁判所に出廷することを許された。弁護側は、ヤルゼルスキが「あの時戒厳令を布告して民主化運動を取り締まらねばソ連が介入してきたはずであり、結果的にポーランドの独立を守った」と主張したが、検察側は、ソ連はポーランド内政に干渉しないという当時のソ連指導部の文書を提示し、ヤルゼルスキ側の弁論に反論した[1]。有罪ならば懲役10年程度が予想されていた。

ヤルゼルスキは2011年よりの治療を受けていたが、2014年5月初旬に脳卒中になり、呼吸困難や身体の麻痺などの症状を訴えて治療中だったという。2014年5月25日午後3時24分、脳梗塞によりワルシャワ市内の病院で死去。90歳没。
人物
評価

ヤルゼルスキは、戒厳令を敷いたことで非難されており、実際に戒厳令中には民主化を主張するポーランド人を弾圧した。しかし一方で熱心なカトリック信徒でもある彼は、教会に逃げ込んだデモ隊に対して弾圧を行なうことは決してなかった。また、以下に述べるように、当時のポーランドの置かれた国際政治環境を考慮する必要があり、大局的視野において評価すべきとの意見も根強く、同時代的評価と歴史的評価との間で評価が割れている人物でもある。

実際のところ、1980年代初頭以前のソ連の衛星国である当時の東欧諸国がその影響下から離脱しようとした時、ソ連が容赦なく軍事侵攻している事実がある以上(例、ハンガリー動乱プラハの春)、戒厳令を敷かなければ、ソ連政府はプラハの春に軍事介入した際に持ち出した制限主権論(ブレジネフ・ドクトリン)に基づきポーランドへ軍事侵攻を実行に移すことは明白であった。実際にソ連からは有効な対策を打たなければ実力行使を行うという期限付き最後通告を受けており、放置しておけばソ連の介入でポーランドが壊滅すると考えた末で戒厳令を決断したとされている。

一方、「ククリンスキ文書」において当時の政府内部では、民主化運動が過激化して収拾がつかない状態に陥れば「最後の手段として」ソ連その他ワルシャワ条約機構軍の受け入れ要請を行うのもやむを得ないという選択肢も検討されていたことが明らかになっている。しかし当時のヤルゼルスキ政権はソ連との間でポーランドの石炭と引き換えに食料や燃料を受け取るバーター取引により国民の生命をつないでいる状態であり、民主化運動が過激化して無政府状態にでもなればそれは即座に国民の多数が餓死する事態が容易に予想されたことから、東側軍隊の受け入れが検討されたことは、「最後の手段」としてならばごく自然な選択肢であるとも考えられる。

ヤルゼルスキ自身ものちに、「あれ(戒厳令の布告)は、(ソ連の介入という事態に比べれば)より小さな悪(lesser evil)だった」といった発言をしているが、「連帯」運動の中心的指導者のひとりであり当時は政府と激しく対立していたジャーナリストのアダム・ミフニクは、このヤルゼルスキの立場を全面的に支持している[2]

自らが悪者として泥をかぶり「ハンガリー動乱」や「プラハの春」のような悲劇を未然に防いだことは、ヤルゼルスキ自身の功績であるという考え方もできる。またポーランド民主化運動も彼が拒否し弾圧を過激化させていたならば、平和的に無血で政権交代に及ぶことが出来ず、ルーマニア革命や、ユーゴスラヴィアの様な内戦に陥る不安もあったと言われている。当時、鋭く対立していたヴァウェンサもその状況は理解しており、「ヤルゼルスキを裁くのは間違いだ」と強く主張し、「ヤルゼルスキに対する評価は現在の世論や政治家や司法ではなく、のちの世の歴史家の判断にゆだねるべきだ」と述べている[3]

東欧革命ではヴァウェンサに主役の座を譲ったが、彼自身も革命的政治家として、東欧革命の主役の一人であった。晩年は旧敵ヴァウェンサと親交を深め、時おり両夫妻で食事を共にするほどの仲であった。かつての宿敵同士は、いまや互いをこの世で最も理解する無二の親友となった。旧民主化運動のパーティーに呼ばれることもあった。ヤルゼルスキが体調を壊してからは、ヴァウェンサが見舞いに来ることも多かった。これらの際にヤルゼルスキとヴァウェンサが歓談している写真は頻繁に報道されている[4][5][6][7]
軍歴

1943年12月16日 - 少尉補

1944年11月11日 - 少尉

1945年4月25日 - 中尉

1946年7月22日 - 大尉

1948年7月10日 - 少佐

1949年1月25日 - 中佐

1953年12月31日 - 大佐

1956年7月14日 - 少将

1960年7月13日 - ポーランド軍政治総局長、中将

1965年 - ポーランド軍参謀総長

1968年 - 大将

1973年 - 上級大将

ポーランドの最高軍事勲章である「ヴィルトゥチ・ミリタリ」勲章を受章。
家庭

妻バルバラは、哲学科学準博士。1女を有する。
著書

『ポーランドを生きる』
河出書房新社工藤幸雄訳。 ISBN 4309222560


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