バンドのメンバーに加えて、本作ではプロデューサーのアンディ・ウォーホルの依頼によりいくつかの曲でニコが歌っている。
1966年4月、ニューヨークのセプター・スタジオの荒れ果てたスタジオが4日間おさえられ、アルバムのための多くの曲がレコーディングされた。期間は4日間で、経費は1,500ドルから3,000ドルと見積もられている。費用はウォーホールとコロムビア・レコードの営業責任者のノーマン・ドルフが受け持った。エンジニアはジョン・リカータが務めた[4]。
レコーディング後、アセテート盤が作られるが、コロムビア・レコードは結局、販売と配給を拒否した。グループはアトランティック・レコードとエレクトラ・レコードにかけあうも、スターリング・モリソンによれば、アトランティックはルー・リードの麻薬に対する言及が気に入らず、エレクトラはジョン・ケイルのヴィオラが気に入らず、やはり断られた[5]。最終的にレーベルはMGMレコードの子会社のヴァーヴ・レコードに決まった。
同年5月、ロサンゼルスのTTGスタジオで行われた2日間のセッションで、「僕は待ち人」「毛皮のヴィーナス」「ヘロイン」の3曲が再レコーディングされた。
同年7月、グループのデビュー・シングル「オール・トゥモロウズ・パーティーズ」が発売される[6]。B面は「ユア・ミラー」。両面ともニコがリード・ボーカルを務める作品が選ばれた。
アルバムの発売日が延期されると、ヴァ―ヴでマザーズ・オブ・インヴェンションのデビュー・アルバム『フリーク・アウト!』を制作した音楽プロデューサーのトム・ウィルソンは、グループにシングルとしてヒットする可能性のある楽曲が必要だと考えた。ウィルソンの依頼によりリードとケイルは「日曜の朝」を書き上げ、11月、ニューヨークのメイフェア・レコーディング・スタジオで録音が行われた。12月、シングル「日曜の朝」が発売。B面にはニコがリード・ボーカルを務める「宿命の女」が収録された[7]。
1967年3月12日にアルバムは発売された。ジャケットはウォーホルのデザイン。バナナ絵のジャケットからバナナ・アルバムとも呼ばれる。バナナの絵の端にはPeel Slowly and See(ゆっくりはがして、見ろ)と書かれていて、初期の盤では貼ってあるバナナのステッカーをはがすとバナナの果肉が現れる。
ブライアン・イーノは1982年に受けた『Musician
』のインタビューで本作品について次のように述べている(インタビュアーはジャーナリストのクリスティン・マッケンナ)。先日ルー・リードと話をしたんだ。彼によるとヴェルヴェット・アンダーグラウンドのファースト・アルバムは5年間で3万枚しか売れなかったそうだ。最近でこそ売り行きが伸びてるみたいだけどね。しかしあんなに重要なレコードはない。なにしろ買った3万人が全員バンドを始めたんだからね[8]。