ヴェルナー・フォン・ブラウン
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しかし、それでもゲシュタポは許そうとせず、最後はヒトラー自らがゲシュタポをとりなし、ようやくフォン・ブラウンは解放された。そのときヒトラーは「私でも彼を釈放することはかなり困難だった」と言ったという。[3]
アメリカへの亡命

1945年5月にドイツは連合国軍に敗北することが確実な状況となり、フォン・ブラウンはペーネミュンデに戻ると直ちに彼の計画スタッフを招集し、どの国に亡命すべきか、どうやって亡命するかを決めるよう求めた。科学者たちのほとんどはロシア人を恐れ、フランス人は彼らを奴隷のように扱うだろうし、イギリスにはロケット計画を賄うだけの十分な資力がないと感じていた。残ったのがアメリカ合衆国である。

偽造した書類で列車を盗み出した後、フォン・ブラウンはアメリカ軍に投降するためにペーネミュンデから500人を連れ出した。その頃SSは、ドイツ軍の管理から逃れて記録を坑道などに隠しアメリカ軍と接触を試みているドイツ人技術者を、殺すよう命令を受けていた。

ドイツが連合国軍に対し降伏した後、最終的にロケットチームはアメリカの民間人を見つけ投降した。技術者たちの重要性を知ると、アメリカ軍は即座にペーネミュンデとノルトハウゼンに向かい、残されたV-2ロケットとV-2の部品を全て捕獲して2つの施設を爆破破壊した。アメリカ人は貨車300両分以上のV-2用スペアパーツをアメリカに持っていった。しかしフォン・ブラウンの生産チームの大半は間もなく進駐してきたソ連赤軍捕虜になった。

5月5日、フォン・ブラウンは当時アメリカ軍の大佐[要出典]で後に中国の宇宙開発を担う銭学森から最初の尋問を受け[4][5]、尋問の過程でフォン・ブラウンが作成した報告書「ドイツにおける液体燃料ロケット開発の調査とその将来の展望」は後のアメリカ合衆国の宇宙開発のロードマップを示すものだった[6]ペーパークリップ作戦で渡米したドイツ人工学者達。最前列右から7番目のポケットに手を入れている人物がフォン・ブラウン博士。フォート・ブリスにて。

6月20日に、アメリカのコーデル・ハル国務長官はフォン・ブラウンのロケット専門家達を移送することを承認した。この移送はペーパークリップ作戦として知られる。その理由は、多数のドイツ人技術者が陸軍兵器廠に配属され、合衆国に来るよう選ばれた者は紙クリップで印付けられたからである。彼らが移送されたのはデラウェア州ウィルミントンのすぐ南方にあるニューカッスル空軍基地であった。その後ボストン市を経由し、海路ボストン湾(英語版)のフォートストロング(英語版)にある陸軍情報部隊(英語版)の駐屯地に連れて行かれた。後に、フォン・ブラウンを除いた専門家たちはメリーランド州アバディーン性能試験場に移され、そこでペーネミュンデの文書を整理させられた。これらの文書があれば、工学者たちが中断していたロケット実験を続けられるのであった。

最終的に、陸軍兵器技術情報チームの本部長オルガー・N・トフトイ陸軍大佐の副官であったジェイムズ・P・ハミル陸軍少佐の命令で、フォン・ブラウンと126人のペーネミュンデの技術者達は、エルパソのすぐ北にある大きな陸軍基地テキサス州フォートブリス(英語版)で、彼らに与えられた新たな家に移された。彼らは合衆国で新生活を始めるにあたり、奇妙な状況にあることに気づいた。彼らは軍人の護衛なしにフォートブリスを出ることができなかったことから、時には自らのことを「平時捕虜」(Prisoners of Peace)――戦時捕虜(Prisoners of War)に掛けた洒落――と呼んだ。

フォートブリスに滞在中、彼らは産・軍・学の要員に複雑なロケットや誘導ミサイルに関する訓練と、ドイツからニューメキシコ州ホワイトサンズ性能試験場に運ばれてきた多数のV-2ロケットを修理し、組立て、そして打ち上げる手伝いをする仕事を課せられた。さらに、彼らは軍事と研究へ応用するロケットが持つ将来的な可能性について学ぶことになった。
アメリカ時代
結婚

この時期、フォン・ブラウンは従妹で18歳のマリア・フォン・クヴィストルプ(英語版)に求婚する手紙を書いた。1947年3月1日、彼はマリアと、彼女の住む地域のルター派教会で結婚式を挙げた。1948年12月に最初の娘アイリスがフォートブリスの陸軍病院で誕生した。

1950年、フォン・ブラウンと彼のチームはアラバマ州ハンツヴィルに移され、そこがフォン・ブラウンの以後20年間の住みかとなった。
レッドストーンロケットウォルト・ディズニー(左)とともに

1950年から1956年にかけ、フォン・ブラウンはレッドストーン兵器廠で陸軍のロケット開発チームを率いて、兵器廠の名にちなんだレッドストーンロケットを生んだ。
宇宙計画への関心

1952年、フォン・ブラウンは、なおもロケットが平和的な探検に使用される世界を夢見て宇宙ステーションの概念を「コリアーズ(英語版)」誌(Collier's)に発表した。この宇宙ステーションは直径75mで、高度1700kmの軌道に置かれ、人工重力を発生するために自転するとされた。彼の予見では、ここは月探検のための理想的な出発点のはずだった。

フォン・ブラウンはまた、ウォルト・ディズニー率いるディズニー社の宇宙探検に関する3本のテレビ映画の制作に技術監督として参加した。フォン・ブラウンはその後何年も、未来の宇宙計画に対してより多数の公衆の興味を惹くことを望んで、ディズニー社との仕事を続けた。
ジュピターCロケット

陸軍弾道ミサイル局(ABMA)の開発オペレーション部門の長として、フォン・ブラウンのチームはレッドストーンを改良したジュピターCロケットを開発した。ジュピターCは1958年1月31日、西側諸国として初めての人工衛星エクスプローラー1号の打ち上げに成功した。この出来事は米国の宇宙計画の誕生を告げる物であった。
NASA時代背後はサターンV型ロケット第一段エンジン

1958年7月29日にはアメリカ航空宇宙局(NASA)が法律上成立した。翌日、50番目のレッドストーンロケットが核実験ハードタック作戦の一部として南太平洋ジョンストン島から成功裏に打ち上げられた。

2年後、NASAはアラバマ州ハンツヴィルマーシャル宇宙飛行センターを新設し、フォン・ブラウンと彼の開発チームをレッドストーン兵器廠からNASAに移籍させた。フォン・ブラウンは1960年から1970年まで同センターの初代所長を務めた。

マーシャル宇宙飛行センターの大きな初仕事は、1960年に就任したジョン・F・ケネディ大統領の指揮下で計画がスタートした、宇宙飛行士を月に運べるサターンロケットの開発であった。

フォン・ブラウンの子供時代の方針であった「時代を動かすこと」とその後の夢となっていた人類が月面を踏む手助けをすることは、1969年7月16日、マーシャル宇宙飛行センターが開発したサターンVロケットアポロ11号の搭乗員を打ち上げた時に現実のものとなった。アポロ計画の過程で6組の宇宙飛行士チームが月面を探検した。

1970年フォン・ブラウンと家族はハンツヴィルからワシントンD.C.に移り、NASA本部の計画担当副長官補に任命され、テクノクラートとしての役割を果すが、アポロ計画後、フォン・ブラウンは彼の将来の宇宙飛行の方針がNASAのものとは違うと感じ、1972年6月にNASAを辞した。彼はメリーランド州ジャーマンタウンにあるフェアチャイルド社の副社長に就任し、米国宇宙研究所(英語版)(1987年に設立された現在の米国宇宙協会(英語版)の前身)を創立し振興する活動を行った。
死去

宇宙協会の活動の頂点で、フォン・ブラウンは自分がであることを知った。手術を受けたが癌は進行し、1976年12月31日にフェアチャイルド社の辞職を余儀なくされた。


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