840年に敬虔王が薨去するに至って、領土を巡る兄弟の対立は頂点を迎えた。841年、フォントノワの戦いで3者は会戦。王国全土を領有せんとするロタールに対し、ルートヴィヒとカールは同盟を結び、ロタール軍を撃破した[4]。更に翌842年、ストラスブールの誓約で2人は同盟関係を再確認、国土の分割をロタールに迫った。こうした圧力の結果、843年8月10日にルートヴィヒとカールはヴェルダンにおいて、王国を3分する案をロタールに呑ませた。ロタールの野望はここに潰えたのである。 条約の本文は散逸しているが、同時代の年代記によってその概略が伝えられている[5]。 ロタールは中部フランク及びイタリア北部、それに神聖ローマ皇帝の位を獲得。皇帝ロタール1世を名乗るが、宗主権は失った。またルートヴィヒは東フランク王国を獲得して国王ルートヴィヒ2世(ドイツ人王)(ルイ2世)を、カールは西フランク王国を獲得して国王シャルル2世(禿頭王)(カール2世)を名乗った[6]。 このうち中部フランクは、(ロタール1世の息子の)ロタールの名を冠する[5]ロタリンギアやアルザス、ロンバルディア、ブルグントより成る。なお、仏語の「ロレーヌ(Lorraine)」、独語の「ロートリンゲン(Lothringen)」は、ロタリンギアに由来する。 ロタールの死後、この地を巡って領土問題が再燃。870年のメルセン条約で一応の帰結をみるが、その後も仏独間の外交問題としてくすぶり続けた。 同条約は、分割相続というフランク族特有の概念を色濃く反映した結果であり、これによりフランク王国は事実上解体された。
内容
脚注^ 柴田、p. 168
^ 成瀬、p. 89
^ 瀬原、p. 43
^ 柴田、p. 166
^ a b 成瀬、p. 89
^ 瀬原、p. 44
参考文献
成瀬治 他 『世界歴史大系 ドイツ史 1』 山川出版社、1997年
柴田三千雄 他 『世界歴史大系 フランス史 1』 山川出版社、1995年
瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
関連項目
帝国整序令(帝国整備令、帝国整序令、帝国分割令、帝国継承令、帝国計画令)
フォントノワの戦い
ストラスブールの誓約
メルセン条約
リブモント条約
国立図書館
フランス