この項目では、1919年のヴェルサイユ条約について説明しています。その他の用法については「ヴェルサイユ条約 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
同盟及連合国ト独逸国トノ平和条約
ヴェルサイユ条約
英語版原本
通称・略称ベルサイユ条約(1919年)
署名1919年6月28日
署名場所ヴェルサイユ宮殿鏡の間
発効1920年1月10日
寄託者 フランス共和国政府
文献情報大正9年1月10日官報号外条約第1号
言語フランス語、英語
主な内容連合国とドイツの講和
国際連盟・国際労働機関の発足など
条文リンク条約本文
ヴェルサイユ条約(ヴェルサイユじょうやく、仏: Traite de Versailles)は、1919年6月28日にフランスのヴェルサイユで調印された、第一次世界大戦における連合国とドイツ国の間で締結された講和条約の通称。「ベルサイユ条約」とも表記される[1][2](「ヴ」の記事も参照の事)。
正文はフランス語と英語であり、正式な条約名はそれぞれフランス語: Traite de paix entre les Allies et les Puissances associees et l'Allemagne、英語: Treaty of Peace between the Allied and Associated Powers and Germanyであるが、ヴェルサイユ宮殿で調印されたことによって、ヴェルサイユ条約と呼ばれる。
日本における正式条約名は同盟及連合国ト独逸国トノ平和条約(大正9年条約第1号)。
この条約および、諸講和条約によってもたらされた国際秩序をヴェルサイユ体制(ヴェルサイユたいせい)という[3][4]。
ヴェルサイユの表記揺れで、ベルサイユ条約やベルサイユ体制と表記することもある[注 1]。
背景
休戦交渉と休戦協定休戦協定締結の様子(写真をもとにした絵画)「十四か条の平和原則」および「ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)」も参照
1916年12月12日、ドイツ帝国が和平の探りを入れるために覚書を発表すると、12月18日に中立国であったアメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンは平和覚書を発表し、和平仲介を買って出た。しかしこの際は連合国の拒否に遭い、和平は実現しなかった[5]。ウィルソンはその後も和平実現の望みを捨てず、1917年1月22日の上院演説で「国際連盟設立」、公海の自由、世界規模の民主化、ポーランドの自由化を求め、公正な「勝利無き講和」を訴えた[6]。その後アメリカは連合国側として参戦することになるが、ウィルソンはその後も公正な講和を唱え、1918年1月8日には「十四か条の平和原則」を発表し、公正な講和を目指す旨をアピールした[7]。
1918年の夏になるとドイツの敗北は明らかになり、9月29日にスパで開かれていた大本営はウィルソンに講和交渉要請を決定した[8]。10月3日に首相となったバーデン公子マックスはアメリカに講和のための覚書を送付し、アメリカとの間で覚書交換がはじまった[9]。この講和交渉の中でアメリカは「十四か条の平和原則」を講和条約の基礎とした上で、専制的と見られたドイツの体制変革を要求し、10月22日にバーデン公子マックスもこれを受諾した[10]。ただしこの時点ではイギリス・フランスといった連合国間での合意は行われておらず、ウィルソンは友人であったエドワード・ハウス名誉大佐をパリに派遣した。ハウスはかなりの妥協と引き替えに「十四か条の平和原則」を講和の前提とする合意を取り付けた[11]。10月27日には講和に反対するエーリヒ・ルーデンドルフ参謀次長が解任され、10月28日には首相の権限が強化された憲法改正が行われ、専制色が薄められた[12]。
11月5日にはキール軍港で水兵の反乱が起きたが(キールの反乱
(英語版))、同日にアメリカ国務長官ロバート・ランシングから休戦条件の詳細について連合国が保障かつ強制する無制限の権力を有するという、事実上の無条件降伏に近い内容を確認する「ランシング・ノート」が送付された[13]。11月7日にマティアス・エルツベルガー無任所相と新参謀次長ヴィルヘルム・グレーナー中将がパリ郊外のコンピエーニュの森に派遣され、連合国軍総司令官フェルディナン・フォッシュ元帥との休戦交渉を開始した。その後首都ベルリンでも皇帝退位を求める声が高まり、11月9日にはバーデン公子マックスが首相を辞任してフリードリヒ・エーベルトが新首相となった。同日にはフィリップ・シャイデマンが独断で共和制を宣言し(ドイツ革命)、翌日には皇帝ヴィルヘルム2世がオランダに亡命した。
共和国政府を率いることになったエーベルトの臨時政府は休戦交渉を引き継ぐこととなり、エルツベルガーらに交渉の継続を命令した。交渉の末、11月11日に休戦協定が結ばれた。この休戦協定は占領地やアルザス=ロレーヌからの即時撤退を含む、抗戦継続を不可能にする大変厳しいものであったが[11]、「十四か条の平和原則」と、1918年2月11日の「四原則」と「民族自決・無併合・無軍税・無懲罰的損害賠償」、9月27日の「五原則」を加えた「ウィルソン綱領」が将来の講和条約の原則となるとされた[14]。
休戦期間は1か月とされており、ドイツ側の状況によっては期限満了後に更新されないことになっていた。 エーベルトの臨時政府は講和交渉の担当者としてウルリヒ・フォン・ブロックドルフ=ランツァウ外相を任命し、独自に講和条件の想定を行った[15]。
講和条件に対するドイツ側の想定
領土