ヴェネツィア共和国
726年 - 歴史的に確認されている最初のドージェオルソ・イパート(英語版)が東ローマ帝国から承認される。
803年 - パクス・ニケフォーリ(英語版)(カール大帝とニケフォロス1世の間に結ばれた講和条約)により、ヴェネツィアが東ローマ帝国領でありつつも事実上独立していることが確認される。
810年 - イタリア王ピピンの侵攻を撃退する。
828年 - 福音記者マルコの遺体をアレクサンドリアから運び、守護聖人とする。
991年 - バシレイオス2世から金印勅書を獲得し、東ローマ帝国内での免税特権を得る。
11世紀初頭 - ダルマチアを征服し、アドリア海の制海権を確保する。
11世紀 - アレクシオス1世コムネノスから金印勅書を獲得し、名目上も独立を果たす。
11世紀 - アジアから運ばれる商品を中継することで莫大な富を築く。
1099年 - 第1回十字軍に参加し、エルサレム王国における名目上の自治権を得る。
1204年 - 第4回十字軍に参加しコンスタンティノポリスを占領する。クレタなど獲得する。
1258年、1295年、1299年 - ジェノヴァ共和国と衝突する。
1284年 - 貨幣「ドゥカート」を発行する。
1290年 - ハンガリー国王にヴェネツィアの名家モロシーニ家(英語版)出身のエンドレ3世が即位する。
1305年 - オモデオ・タッソがヴェネツィア使者商会を設立する。
1310年 - 元首ピエトロ・グラデニーゴによる改革に反発するクーデターが発生(失敗)、以後共和国の政治は事実上の寡頭政に移行する。
(1323年に議員世襲制が、1335年に十人委員会が常制化される)
1350年から1381年 - ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争に勝利する。
1355年 - 元首マリーノ・ファリエロが王政を目指しクーデターを起こすも失敗し死刑になる。
1408年 - ハンガリー王国からダルマチアを奪取する。
1423年 - テッサロニキを獲得する。
1425年 - ミラノ公国からアッダ川までの領土を奪取する。
1454年 - ローディの和
1463年から1479年 - オスマン帝国との戦争によりネグロポンテなどを失う。
1482年 - フェラーラ戦争(イタリア語版、英語版)で勝利する。
1489年 - キプロス島を獲得する。
1503年 - アプリア港を獲得する。
1508年から1516年 - カンブレー同盟戦争(イタリア戦争のひとつ)
1522年 - ロドス島のロドス包囲戦でオスマン帝国に敗北する。
1538年 - プレヴェザの海戦でオスマン帝国に敗北する。
1571年 - オスマン帝国により、キプロス島が陥落する。レパントの海戦で勝利するも、キプロス奪還には失敗する。
1613年から1617年 - オーストリアとの戦争
1628年 - マントヴァ継承戦争(イタリア語版、英語版)
1630年頃 - 黒死病の流行
1644年から1669年 - オスマン帝国との戦争によりクレタを失う。
1684年から1699年 - モレア戦争(英語版)によりダルマチアおよびギリシアの領土をわずかに回復する。
1797年 - ナポレオン・ボナパルトに降伏。カンポ・フォルミオ条約調印によりヴェネツィア共和国は正式に消滅。
政府15世紀から16世紀にかけてのヴェネツィア共和国の領域。濃赤は15世紀初頭までの領土、赤は16世紀初頭までの領土、ピンクは一時的に領有していた土地を示す。黄色い領域は制海権を持っていた海域、オレンジの線は主要な商業航路、紫の四角は商業拠点があった場所を示す。初期のヴェネツィア共和国では、ドージェが独裁的な権限を持っていた。しかし後にドージェは就任の際に宣誓を求められるようになり、結果として権力は大評議会と共有されることになった。大評議会の定足数は480であり、ドージェも大評議会も互いに相手を無視して決定を行うことはできなかった。
1175年にリアルト(英語版)の有力貴族が小評議会を設立した。これは6人から成るドージェの顧問である。また、1179年には3人から成る最高裁判所Quarantiaが設けられた。これらは1223年にシニョリーア(Signoria)として統合された。これはドージェを含めて10人で構成され、政府の中枢であった。ドージェが死亡した際には、その葬儀で「ドージェは死んだ。しかしシニョリーアは健在である」と述べられた。また、2人から成るサピエンテス(sapientes)も設立され、後に6人に拡張された。これは他の集団と合わせてコッレージョ(collegio)を構成し、政府の実行部門となった。1229年に設立されたコンシリオ・デイ・プレガディ(Consiglio dei Pregadi)は貴族院のようなものであり、大評議会により選出された60名の議員が構成した[2]。これらの機関のために、ドージェの実権は限定的なものとなり、実際の職権は主として大評議会に委ねられた。1335年に十人委員会が設立され、政府の中枢として、非公開の活動を行った。1600年頃には、十人委員会の影響力が大評議会を凌ぐようになり、その権限は縮小された。
トマス・アクィナスは、ヴェネツィア共和国の政体は共和制とドージェによる君主制、そして貴族院による貴族政治と大評議会による民主政治の複合政体であると考えた[3]。また、ニッコロ・マキャヴェッリは、『君主論』でヴェネツィアを共和制国家に分類した[4]。
1454年に3人の調査官からなる情報機関が設立され、諜報、防諜、および国内監視のための情報網を充実させた。これは非合法な政体変革の企て等を阻止することが目的であった。調査官の一人は赤い外套を着用することからイル・ロッソ(赤い男)と呼ばれ、ドージェの顧問により任命された。他の2名はイ・ネグリ(黒い男)と呼ばれる黒い外套の人物であり、十人委員会に任命される。この情報機関は、徐々に十人委員会の影響下に置かれるようになった[2]。
1556年にprovveditori ai beni incultiが設立され、農業技術や、農業技術開発への個人投資が促進された。これは、16世紀の穀物価格上昇を受けてのことである。
元首Corno Ducale(ドージェの冠)を被ったレオナルド・ロレダンの肖像画。ジョヴァンニ・ベリーニ、1501年以降、ナショナル・ギャラリー (ロンドン)蔵。詳細は「ドージェ」を参照
ヴェネツィア共和国の元首はドージェ(ヴェネト語: Doxe, イタリア語: Doge)と呼ばれ、その語源はラテン語: Duxであり、軍の指揮官または公爵を表す。
次ページ記事の検索おまかせリスト▼オプションを表示暇つぶしWikipedia
Size:76 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef