日本政府(農商務省)は第2回の1897年にイタリア政府の要請を受けて工芸作品などを出展しているが、その次の参加は第14回(1924年)まで飛んでいるように、政府や国民は一貫してビエンナーレには関心を示さず、展示スペースは毎回他国のパビリオンを間借りしていた。1930年代以降、日本政府はたびたびイタリア政府からパビリオン建設を打診されており、民間では募金を集めて日本館を建設する運動もあった。しかし建設に踏み切る間もなく世界は第二次大戦に突入した。
1952年、日本はビエンナーレにはじめて公式参加した[1]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}1950年代前半、イタリア政府から日本外務省へ、ジャルディーニに空いていた最後のパビリオン用地に日本が1956年までにパビリオンを建設しない場合はパビリオンを欲している他国へ用地を割り当てるという通告がなされた。日本は予算不足を理由に建設を見送るところであったが、1955年、ブリヂストンの会長だった石橋正二郎が外務省の要請に応じて資金を政府に寄付し、外務省予算と合わせて建設費が出せることになった[要出典]。吉阪隆正の設計による日本館が完成したのは1956年であった。
歴史
ビエンナーレの始まり会期中のジャルディーニ会場入口展示館(旧イタリア・パビリオン)
19世紀末、イタリア統一により独立を失い低迷していたヴェネツィア市は、芸術分野でもミラノなどに押されていた。1893年、ヴェネツィア市議会は、ウンベルト1世とマルゲリータ王妃の成婚25周年を記念し、ヴェネツィアが人道及び文化の面で貢献する街になることを決議した。同時にその一環として「イタリア美術展」の開催も決めた。1894年にはジャルディーニで美術展の会場となる展示宮殿(Palazzo dell'Esposizione)の建設が進められた。1895年、ヴェネツィア市は国王夫妻臨席の元、ジャルディーニの展示宮殿で「第一回ヴェネツィア市国際芸術祭」(I Esposizione Internazionale d'Arte della Citta di Venezia )の開会式を挙行した。「第一回ヴェネツィア市国際芸術祭」は会期中に22万4千人の観客を集めた。以後、ヴェネツィア市は二年ごとに芸術祭を開催することを決め、万国博覧会をモデルに事業の拡大を図った。当初から「国際展」という在り方に重きがおかれ、各国のコミッショナーが選出した作家の作品を展覧する国別参加(国別展示)と、授賞制度という特徴を持ち、美術のオリンピックとも称されてきた[2]。当初は装飾芸術が主だったビエンナーレはその後、20世紀の美術運動を紹介する場となるとともに、国際政治の確執の舞台ともなってゆく。
20世紀初頭には展覧会の国際化が進んだ。1907年にベルギーがジャルディーニ内に自国専用パビリオンを建てると[3]、各国もこれに追随し、1914年までにハンガリー、ドイツ、イギリス、フランス、ロシアが自国パビリオンを建設した。1909年の回では、観客数が46万人と絶頂に達した。その翌年1910年に開催されたビエンナーレでは、グスタフ・クリムトとピエール=オーギュスト・ルノワールの個展、およびギュスターヴ・クールベの回顧展が行われるなど、国際的に重要な芸術家が招待された。しかし同回、主催者はスペイン室からパブロ・ピカソの絵画を、余りに目新しすぎて観客にショックを与えるとして撤去し議論となった(ピカソはこの後、1948年までヴェネツィア・ビエンナーレに展示されなかった)。第一次世界大戦で1916年と1918年の回が中止された後、近代美術に欧米の注目が集まる中、ビエンナーレも近代美術や前衛芸術の紹介に焦点を当てるようになった。1920年には印象派、ポスト印象派、ブリュッケが招かれ、1922年はアメデオ・モディリアーニとアフリカ美術が紹介され議論を呼んだ。戦間期には多くの重要な近代美術家がビエンナーレに参加している。
ビエンナーレの変化ヴェネツィア市街での展示風景、2009年アルセナーレ内に設けられた新イタリア・パビリオン2011-2012年の展示風景 (Special Edition for 150 Anniversary of Italian Unification) [4]