ヴェストファーレン条約
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スイス連邦ネーデルラント連邦共和国は、独立を承認された(神聖ローマ帝国からの離脱を確認)[12]

ブランデンブルク選帝侯は、ヒンターポンメルン公位(東ポンメルン)を獲得した。

アウクスブルクの和議の内容を再確認し、カルヴァン派を新たに容認した[11]

神聖ローマ帝国内の領邦主権と外交権を認められた[11][12]

一方神聖ローマ皇帝は、法律の制定・戦争・講和・同盟などについて帝国議会の承認を得なければならなくなった[12]

神聖ローマ帝国内の議会及び裁判所におけるカトリックとプロテスタントの同権が規定された[11][12]

1623年に皇帝フェルディナント2世が決定したプファルツ選帝侯から選帝侯の地位を剥奪してバイエルン公に与える勅令は有効とされ、バイエルン公マクシミリアン1世は、与えられた選帝侯位はそのまま認められた。一方で、プファルツ選帝侯カール1世ルートヴィヒに対しては選帝侯位を新たに与えられた。旧プファルツ領は両者で分割され、バイエルン選帝侯はオーバープファルツを獲得した。なお、バイエルンとプファルツが統合された場合にはプファルツの選帝侯位は消滅することとされた。

この結果、フランスは、アルザス・ロレーヌへの勢力拡大に成功し、スウェーデン帝国議会への参加権を得た。一方、ドイツでは領邦主権が確立し、領邦君主による連合体としてのドイツという体制が固まった[12]

この条約の成立によって、教皇皇帝といった普遍的、超国家的な権力がヨーロッパを単一のものとして統べる試みは事実上断念された[12]。これ以降、対等な主権を有する諸国家が、外国の存在を前提として勢力均衡の中で国益をめぐり合従連衡を繰り返す国際秩序が形成された。この条約によって規定された国際秩序はヴェストファーレン体制とも称される[12]
影響ヴェストファーレン条約後のドイツ地方。大国はもちろん、都市国家規模の自由都市や小国までもが独立国としての権威を獲得した。

三十年戦争はカトリック派諸国、とりわけハプスブルク家の敗北によって終わった。この条約で新教徒(特にカルヴァン派)の権利が認められ、帝国議会や裁判所におけるカトリックとプロテスタントの同権が定められたこと、またカトリックの皇帝が紛争を調停する立場にあるわけではないことが確定したことで、ドイツでは紛争を平和的に解決する道が開かれた。このため最後の宗教戦争と言われる[11]

ドイツは、帝国内の領邦に主権が認められたことにより、300に及ぶ領邦国家の分立が確定した。また皇帝の権利は著しく制限され、いわば諸侯の筆頭という立場に立たされることとなった[11]。これにより、ハプスブルク家は依然として帝国の最有力諸侯として帝位を独占したものの、帝国全体への影響力は低下し、自らの領地であるオーストリア大公国ボヘミア王国ハンガリー王国などの経営に注力せざるを得なくなった(ハプスブルク君主国)。その一方で、帝国の組織は保存され、それら領邦国家の保存・平和的な紛争解決手段として活用されることとなった。

この条約で多くの利益を得たのは、ベールヴァルデ条約で結ばれていたフランスとスウェーデンである。デンマーク王国イングランド王国ピューリタン革命の中途)はプロテスタントでありながら戦勝国に加われなかった。また、カトリックのスペイン・ハプスブルク家がこの戦争を通して勢力の減退を印象づけ、以後は没落の一途をたどる[11]
フランス

フランス王国はカトリックでありながら戦勝国となった。ハプスブルク家の弱体化に成功した上、アルザスを得たフランスは、以後ライン川左岸へ支配領域の拡大を図り、侵略戦争を繰り返すことになる[11]


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