フリックはヒムラーを全面的に支持していたわけではなく、その強引な捜査手法について批判もしていた。1935年1月30日にフリックがヒムラーに宛てた書簡は「バイエルン州における保護拘禁数は他の州と比べても異常である」と苦言を呈している[28]。フリックはヒムラーよりクルト・ダリューゲを高く評価していた。ダリューゲをドイツ国内務省警察局長に任命していた。フリックはヒムラーを名目的な事務職にしてダリューゲに警察の実権を掌握させる構想を持っていた[29]。しかし1936年6月9日にヒトラーはヒムラーの全ドイツ警察長官就任と閣議への出席の提案を認めた。フリックはヒトラーに抗議したが、ヒトラーは「ヒムラーを閣僚に任命したわけではない。彼は官房長官として閣議に出席するだけだ」と述べてフリックを納得させた[30]。フリックも応じるしかなくなり、1936年6月17日にヒムラーを全ドイツ警察長官に任じた。フリックの推すダリューゲはヒムラーから秩序警察長官に任命され一応厚遇されたが、ゲシュタポなど権力の源泉となる政治警察はすべてハイドリヒの保安警察にまとめられたため、ダリューゲの権力は低下した[30]。ただし、フリックとヒムラーの両者の実際の力関係はともかくとして、形式上、国家全域の統一基準の設置が内務大臣であるフリックの権限に属することは疑いの無いところであった[31]。
フリックは形式的な内務大臣である事が多かったとはいえ、見逃すことはできない犯罪的な法律の起草にも携わっている。ニュルンベルク法をはじめとするユダヤ人を社会から排除する法律や、1934年6月の「長いナイフの夜」での粛清を正当化する法律を起草したのはフリックの内務省であった[11][32]。1938年9月23日、ズデーテンラントで演説するフリック。
1938年1月25日、ゲシュタポは内務大臣の承認を経ずに国民を保護拘禁することを認められ、これによってフリックが内務大臣として所持していたゲシュタポへの僅かな拘束力も完全に消滅した[33]。第二次世界大戦開戦でドイツが完全に軍事国家と化してしまうとフリックの力は一段と低下した[11]。戦時中SS権力がますます巨大化していく中、反SS的なフリックは邪魔な存在になり、1943年8月20日にフリックは内務大臣を解任された。後任の内務大臣に就任したのは、親衛隊全国指導者であり全ドイツ警察長官であるハインリヒ・ヒムラーであった[34]。ただし代わりにフリックは無任所大臣に任命され、形式的な閣僚としての地位は保った[2]。 1943年8月24日、フリックはコンスタンティン・フォン・ノイラートの後任としてベーメン・メーレン保護領総督に任命された[11]。しかし、ここでも実権は同保護領担当国務相カール・ヘルマン・フランクが握っており、事実上の左遷措置をとられたフリックは相変わらず形式的な存在でしかなかった[11]。 1945年5月4日、連合軍に逮捕された。1945年11月から始まったニュルンベルク裁判で起訴された。フリックは4つの起訴事項(第一起訴事項「侵略戦争の共同謀議」、第二起訴事項「平和に対する罪」、第三起訴事項「戦争犯罪」、第四起訴事項「人道に対する罪」)全てで起訴された。 公判中、フリックは無表情な顔と生気のない目をしていたため、精神分析医ダグラス・ケリー
ベーメン・メーレン保護領総督
ニュルンベルク裁判1945年11月27日、ニュルンベルク裁判公判中。前列左から三人目がフリック。
1946年10月1日に判決が下った。判決はフリックについて「常に過激な反ユダヤ主義者として、ユダヤ人をドイツの生活・経済から締め出す目的を持つ、数多くの法律を起草し、署名し、実施した。」「フリックの反ユダヤ主義法令が"最終解決"への道を開いた。」「ベーメン・メーレン保護領総督としてのフリックの権限は前任者に比べてかなり制限されたものであったことは事実である。しかし彼はヨーロッパにおけるナチスの占領政策、特にユダヤ人に対する処置は十分に承知していた。」「メーメル、ダンツィヒ、西プロイセン、ポーゼン、オイペン、マルメディ、モレスネートなどにドイツ化を行ったことに責任を負う。」として、第二起訴事項「平和に対する罪」、第三起訴事項「戦争犯罪」、第四起訴事項「人道に対する罪」の3つで有罪とした[35]。彼に下された量刑判決は絞首刑だった。 1946年10月16日午前1時10分から自殺したヘルマン・ゲーリングを除く死刑囚10人の絞首刑が順番に執行された。フリックは、リッベントロップ、カイテル、カルテンブルンナー、ローゼンベルク、フランクの後、6番目に処刑された[36]。フリックは絞首台の階段を昇る際によろけたので支えられながら昇った[37]。最後の言葉は「不滅なるドイツ万歳!」だった[38]。絞首刑はうまくいったとは言えず、フリックの顔は酷い傷を負った。恐らく落とし戸が小さすぎたことと首に縄をかける位置がよくなかったためと思われる[39]。69歳没。 自殺したゲーリングを含めてフリックら11人の遺体は、アメリカ軍のカメラマンによって撮影された。撮影後、木箱に入れられ、アメリカ軍の軍用トラックでミュンヘン郊外の墓地の火葬場へ運ばれ、そこで焼かれた。
処刑