1943年8月24日、フリックはコンスタンティン・フォン・ノイラートの後任としてベーメン・メーレン保護領総督に任命された[11]。しかし、ここでも実権は同保護領担当国務相カール・ヘルマン・フランクが握っており、事実上の左遷措置をとられたフリックは相変わらず形式的な存在でしかなかった[11]。
ニュルンベルク裁判1945年11月27日、ニュルンベルク裁判公判中。前列左から三人目がフリック。
1945年5月4日、連合軍に逮捕された。1945年11月から始まったニュルンベルク裁判で起訴された。フリックは4つの起訴事項(第一起訴事項「侵略戦争の共同謀議」、第二起訴事項「平和に対する罪」、第三起訴事項「戦争犯罪」、第四起訴事項「人道に対する罪」)全てで起訴された。
公判中、フリックは無表情な顔と生気のない目をしていたため、精神分析医ダグラス・ケリー
少佐はフリックを「最も目立たない被告」と呼んだ[7]。裁判ではフリックは証言を拒否し、証言台に立たなかった[11]。1946年10月1日に判決が下った。判決はフリックについて「常に過激な反ユダヤ主義者として、ユダヤ人をドイツの生活・経済から締め出す目的を持つ、数多くの法律を起草し、署名し、実施した。」「フリックの反ユダヤ主義法令が"最終解決"への道を開いた。」「ベーメン・メーレン保護領総督としてのフリックの権限は前任者に比べてかなり制限されたものであったことは事実である。しかし彼はヨーロッパにおけるナチスの占領政策、特にユダヤ人に対する処置は十分に承知していた。」「メーメル、ダンツィヒ、西プロイセン、ポーゼン、オイペン、マルメディ、モレスネートなどにドイツ化を行ったことに責任を負う。」として、第二起訴事項「平和に対する罪」、第三起訴事項「戦争犯罪」、第四起訴事項「人道に対する罪」の3つで有罪とした[35]。彼に下された量刑判決は絞首刑だった。 1946年10月16日午前1時10分から自殺したヘルマン・ゲーリングを除く死刑囚10人の絞首刑が順番に執行された。フリックは、リッベントロップ、カイテル、カルテンブルンナー、ローゼンベルク、フランクの後、6番目に処刑された[36]。フリックは絞首台の階段を昇る際によろけたので支えられながら昇った[37]。最後の言葉は「不滅なるドイツ万歳!」だった[38]。絞首刑はうまくいったとは言えず、フリックの顔は酷い傷を負った。恐らく落とし戸が小さすぎたことと首に縄をかける位置がよくなかったためと思われる[39]。69歳没。 自殺したゲーリングを含めてフリックら11人の遺体は、アメリカ軍のカメラマンによって撮影された。撮影後、木箱に入れられ、アメリカ軍の軍用トラックでミュンヘン郊外の墓地の火葬場へ運ばれ、そこで焼かれた。遺骨はイーザル川の支流コンヴェンツ川
処刑
人物
米軍の拘留記録によると身長は178センチだった[41]。
ニュルンベルク刑務所付心理分析官グスタフ・ギルバート大尉が、開廷前に被告人全員に対して行ったウェクスラー・ベルビュー成人知能検査によると、フリックの知能指数は124で、全被告人中ではヴァルター・フンクと並んで5番目に低かった[42]。
脚注[脚注の使い方].mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、ヴィルヘルム・フリックに関連するカテゴリがあります。
注釈^ 1923年にミュンヘン一揆に参加して逮捕されたため、離党。1925年に再入党。
出典^ a b c ヴィストリヒ、228頁
^ a b c d e f g h i j “LeMO Biografie - Biografie Wilhelm Frick”. LeMO ? Lebendiges Museum Online. 2015年12月26日閲覧。
^ a b ゴールデンソーン、60頁
^ a b c d e f ゴールデンソーン、54頁
^ a b c d e f g h マーザー、ウール、524頁