ヴィルヘルム・フリック
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1925年にナチ党が再建すると再入党し[5]、1928年にはナチ党の全国指導者として同党国会議員団の団長となる[2]

フリックは国会議員の力を使ってヒトラーがドイツ市民権を取得できるよう尽力した。当時のドイツでは公務員になれば自動的にドイツ市民権を取得することになっていたので[7]、ヒトラーをヒルドブルクハウゼンという小さな町の治安関係の公務員に成れるよう手筈を整えた。しかしあまりにみすぼらしい役職にヒトラーが激怒して辞令を破り捨ててしまった。結局、1932年2月25日になってフリックはブラウンシュヴァイク州のベルリン駐在州公使館付参事官という形式でヒトラーにドイツ国籍を与える(ドイツ語版)ことに成功した[8]。フリックはこの業績を最も誇りにしていた[7]。詳細は「アドルフ・ヒトラーのドイツ国籍取得(ドイツ語版)」を参照
テューリンゲン州内務大臣・教育大臣 エルヴィン・バウムテューリンゲン州首相1930年10月、テューリンゲン州州都ヴァイマール突撃隊の行進を見学するテューリンゲン州内務大臣フリック。右隣はヨーゼフ・ゲッベルス

1929年12月8日のテューリンゲン州議会選挙でナチ党は11パーセントの得票を得て州議会に6名の議員を出した[9][10]

その結果テューリンゲン州首相エルヴィン・バウム(ドイツ語版)はナチ党との連立を決意した。1930年1月23日にフリックがテューリンゲン州内務大臣兼教育大臣に就任した(de)[11]。地方政府とはいえナチ党員が閣僚職を手にしたのはこの時が初めてだった。テューリンゲン州内務大臣・教育大臣としてフリックが行った政策は後のナチ党政権の政策の先駆けだった[11]

ヴァイマル共和政シンパの警察官はテューリンゲン州警察から次々と追放され、ナチ党員やナチ党シンパの警察官が続々と送りこまれた[11][9]。1930年7月にはイエナ大学にナチ党お抱えの人種学者ハンス・ギュンターの人種学の特別講座を設けさせた[11][12]。反戦映画「西部戦線異状なし」は上映禁止処分となり、ジャズも禁止された[11]。州の芸術大学ではかつてヴァイマルにあったバウハウス色の一掃が図られ、退廃美術反対派の評論家シュルツェ=ナウムブルクが招聘されて近代美術の展示や近代音楽の演奏が禁止された[13]。一方で反ユダヤ主義プロパガンダ作品には一切の検閲が廃されてやりたい放題となった[11]

1931年4月1日にテューリンゲン州内務大臣・教育大臣職を辞した[11]。1932年から再びミュンヘン最高保健局所属となる[5]
ドイツ国内務大臣1933年1月30日、アドルフ・ヒトラー内閣成立。ヒトラーのすぐ後ろに立っている人物がヴィルヘルム・フリック内務大臣。

1933年1月30日、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりアドルフ・ヒトラー首相に任命された。フリックは内務大臣としてヒトラー内閣に入閣した。成立当初のヒトラー内閣におけるナチ党員は、首相アドルフ・ヒトラー、無任所大臣ヘルマン・ゲーリング、そして内務大臣フリックの3名のみで、他の閣僚メンバーはフランツ・フォン・パーペン内閣時代からの貴族閣僚とナチ党の連立相手である国家人民党アルフレート・フーゲンベルク鉄兜団フランツ・ゼルテなどによって占められていた。大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクの影響が大きく、権威主義的保守閣僚たちがナチ党閣僚三人を取り囲む構図になっていた[14][15]。フリックは1943年までの10年間にわたって内務大臣を務め続けることになる。

政権初期に大きな権限を持っていたフリックはナチ党の強制的同一化政策を推し進めた。1933年3月23日には全権委任法に内務大臣として署名した。これによりヒトラー独裁体制が確立された[16][17]。さらに1933年12月1日には「党と国家の統一のための法律」に署名。これによりナチ党とドイツ政府は一体化され、ナチ党以外の政党の存続と樹立は禁止された[18][19]

内務大臣としてのフリックはドイツの地方政府の自治権を奪い、中央集権体制を確立するのを急いだ。フリックは1933年3月にハンブルクで「中央政府に服従しようとしない州政府があれば軍隊を差し向ける。」と演説した[20]。そして1933年3月9日から3月15日にかけて各州の自治権取り上げが行われた[21]。強い抵抗を見せたハインリヒ・ヘルトバイエルン州政府も3月9日にはフランツ・フォン・エップ率いる突撃隊親衛隊部隊によって制圧された[22][要文献特定詳細情報]。

しかしプロイセン自由州だけはうまくいかなかった。プロイセン内務大臣を兼任していたゲーリングはプロイセン行政機関を自らの私的機関に仕立て上げてフリックのドイツ国内務省に吸収されるのを避けようと図ったためである[23]。フリックは1933年11月に警察権を完全に中央政府へ移行させることを企図したが、この時もゲーリングはゲシュタポをプロイセン内務省から独立させて自分の直接指揮下の機関にするなどして逃れようとした[24]。フリックは、ゲーリングへの対抗として、バイエルン州警察長官を務めていた親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーに接近し、1933年末から1934年初頭にかけてヒムラーにプロイセン州を除く全州警察権力をヒムラーに委任した[25]


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