1905年からミュンヘン警察本部(de)の次席検事(Amtsanwalt)となる[2]。1907年からはピルマーゼンスで管区庁試補となる[5]。第一次世界大戦には従軍していない[1]。1917年からは行政試補となり[5]、ミュンヘン警察本部で不当利得者や密売買を取り締まる部署の部長を務めた[4]。
1919年には行政公務員及びミュンヘン警察本部政治警察長に就任[5]。ちょうどバイエルン・レーテ共和国の樹立騒ぎがあった時期でフリックは共産主義者の取り締まりに尽力した[6]。。1921年にはミュンヘンの警察第3局課長となり、1923年2月からはミュンヘン警察本部の刑事警察長に任命される[5]。
ナチ党入党[ソースを編集]
1923年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の党首アドルフ・ヒトラーと初めて出会った。ヒトラーが党集会を行いたい旨の申請を警察の政治部長だったフリックのところへ持参したのがきっかけだった。ヒトラーとナチ党の理想に共感したフリックは、同年にナチ党に入党した[6]。1923年11月のミュンヘン一揆にも参加したため逮捕され、服務規定違反を理由にバイエルン州での公務を解雇された[2]。1924年4月1日、ミュンヘン一揆の裁判にかけられる被告たち。左から三人目(背広の人物)がフリック。中央はルーデンドルフ将軍、その右はヒトラー。
主要参加者としてヒトラーやルーデンドルフ、レームらとともに裁判にかけられ、1924年4月1日の判決で15か月の禁固刑判決を受けたが、執行猶予が付けられ、判決後に釈放された[2][6]。
1924年5月4日、ナチ党の友党「ドイツ民族自由党」から国会議員選挙に出馬し初当選した[2]。同年、当時としては衝撃的な二つの法案を国会に提出した。ユダヤ人の公職就任禁止法案とユダヤ人と非ユダヤ人の婚姻を禁止する法案である[7]。これは後にナチ党政権下で反ユダヤ主義法「ニュルンベルク法」として可決成立することとなる。
1924年からはミュンヘン警察本部の刑事課課長、1926年にはミュンヘン最高保健局首席高級官吏となる[5]。
1925年にナチ党が再建すると再入党し[5]、1928年にはナチ党の全国指導者として同党国会議員団の団長となる[2]。
フリックは国会議員の力を使ってヒトラーがドイツ市民権を取得できるよう尽力した。当時のドイツでは公務員になれば自動的にドイツ市民権を取得することになっていたので[7]、ヒトラーをヒルドブルクハウゼンという小さな町の治安関係の公務員に成れるよう手筈を整えた。しかしあまりにみすぼらしい役職にヒトラーが激怒して辞令を破り捨ててしまった。結局、1932年2月25日になってフリックはブラウンシュヴァイク州のベルリン駐在州公使館付参事官という形式でヒトラーにドイツ国籍を与える(ドイツ語版)ことに成功した[8]。フリックはこの業績を最も誇りにしていた[7]。詳細は「アドルフ・ヒトラーのドイツ国籍取得(ドイツ語版)」を参照
テューリンゲン州内務大臣・教育大臣 [ソースを編集]エルヴィン・バウムテューリンゲン州首相1930年10月、テューリンゲン州州都ヴァイマール。突撃隊の行進を見学するテューリンゲン州内務大臣フリック。右隣はヨーゼフ・ゲッベルス。
1929年12月8日のテューリンゲン州議会選挙でナチ党は11パーセントの得票を得て州議会に6名の議員を出した[9][10]。
その結果テューリンゲン州首相エルヴィン・バウム(ドイツ語版)はナチ党との連立を決意した。1930年1月23日にフリックがテューリンゲン州内務大臣兼教育大臣に就任した(de)[11]。地方政府とはいえナチ党員が閣僚職を手にしたのはこの時が初めてだった。テューリンゲン州内務大臣・教育大臣としてフリックが行った政策は後のナチ党政権の政策の先駆けだった[11]。
ヴァイマル共和政シンパの警察官はテューリンゲン州警察から次々と追放され、ナチ党員やナチ党シンパの警察官が続々と送りこまれた[11][9]。1930年7月にはイエナ大学にナチ党お抱えの人種学者ハンス・ギュンターの人種学の特別講座を設けさせた[11][12]。反戦映画「西部戦線異状なし」は上映禁止処分となり、ジャズも禁止された[11]。州の芸術大学ではかつてヴァイマルにあったバウハウス色の一掃が図られ、退廃美術反対派の評論家シュルツェ=ナウムブルクが招聘されて近代美術の展示や近代音楽の演奏が禁止された[13]。一方で反ユダヤ主義プロパガンダ作品には一切の検閲が廃されてやりたい放題となった[11]。
1931年4月1日にテューリンゲン州内務大臣・教育大臣職を辞した[11]。1932年から再びミュンヘン最高保健局所属となる[5]。