ヴィルヘルム・フォークト
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1920年代後半には、「歴史的な出来事」としてのケーペニック事件に再び人々の関心が集まることになる。
釈放後テーゲル刑務所(ドイツ語版)を出るフォークト。ロンドンを訪れたフォークト。プロイセンの将校用外套を着用している(1910年頃)

ケーペニック事件はフォークトを世界的な有名人にした。釈放当日には蓄音機に保存用の吹き込みを行い、報酬として200マルクを受け取っている。この中で彼は次のように述べている。開放され自由に歩きまわりたいという欲求は、私の中で大きく膨らんでいた。今では私は自由の身だが、さらにこう望みたい。[…]そして神よ、どうか私をもう二度と無法者にはしないで頂きたい。[7]

彼がリクスドルフに戻った時には押し寄せる群衆を整理するべく治安部隊の投入さえ行われ、2日間のうちに17人が治安妨害(Ruhestorung)および類似の罪で逮捕されている。さらに釈放から4日後にはウンター・デン・リンデンにある蝋人形館カスタンス・パプノティクム(ドイツ語版)にて自身の蝋人形の除幕式に参加しスピーチやサイン入り写真の販売などを行うと宣言したものの、当局の指示により断念している。その後はドイツ各地を巡り、ホールやサーカスなどで「ケーペニックの大尉」を演じてサイン入り写真などを販売した。また、かつて彼の「部下」となった近衛兵らがこうした催し物に参加して、共に記念撮影を行うこともあった。1909年には自叙伝『Wie ich Hauptmann von Kopenick wurde. Mein Lebensbild / Von Wilhelm Voigt, genannt Hauptmann von Kopenick.』(「いかにして私はケーペニックの大尉になったのか。我が人生/著:ヴィルヘルム・フォークト、またの名をケーペニックの大尉」)を出版した。

ケーペニック事件によって民衆の支持を得たフォークトは、釈放後も警察による要注意人物であり続けた。地方自治体は彼がケーペニックに対して行った詐欺が自分たちに降りかからないかと神経をとがらせ、名誉を傷つけられた帝国軍は彼を嫌悪すらしていた。その為、彼はドイツを離れて新しい家を探しつつ、ヨーロッパ諸国でも公演を行った。不確かながらも伝えられるところによれば、1910年3月にはアメリカでも公演を行い大成功を収めたという。

1910年5月1日、フォークトはルクセンブルクの旅券を取得して移住し、ウェイターや靴職人として働いた。依然として「ケーペニックの大尉」の人気は衰えず、彼はやがて大公国で最初の自動車所有者となった。時にはこの自動車で家主一家を連れて旅行に出ていたという。1912年、ナイペルク通り5番地 (Neippergstrase Nr.5) に住居を得て、死去するまでここに暮らした。

第一次世界大戦最中の1914年の晩秋、ルクセンブルクはドイツ帝国軍の占領下に置かれた。この際にフォークトは占領軍による短期間の逮捕と取り調べを受けている。取り調べの担当将校は、「かつてこの貧相な男がどのようにしてプロイセンを震撼させたのか、理解できない」と書き残している。
死去「ケーペニックの大尉」の墓碑

事件後は様々な形で注目を集めてきたフォークトだったが、晩年は人前に姿を見せることが少なくなっていた。1922年1月3日、肺疾患によって72歳で死去した。敗戦によるハイパーインフレの中でほぼ無一文となっていた彼は地元の聖母墓地 (Liebfrauenfriedhof) に埋葬された。彼の葬儀の折、居合わせた仏軍士官が「誰が死んだのか」と問うたところ会葬者が「ケーペニックの大尉殿です」と応じた為、仏軍士官はこれを本物の陸軍大尉の葬儀と勘違いして正式な軍隊葬を行わせたという逸話が残されている。

1961年、ザラザーニ(ドイツ語版)のサーカス団がヴィルヘルム・フォークトの墓地の権利を購入すると共に新しい墓碑を送った。1975年には市当局に権利が返還され、墓碑が作りなおされた。新しい墓碑には「HAUPTMANN VON KOEPENICK」と大きく掘られ、その下に小さく「Wilhelm Voigt 1850?1922」と書かれている。なお、彼の生年は1850年ではなく1849年である。

1999年にはベルリンへの改葬が提案されるもルクセンブルクではこれを拒否している。
記念碑、展示物など

1996年、ケーペニック市庁舎前に「ケーペニックの大尉」の銅像が建てられた。設計はアルメニア人彫刻家スパルタク・ババジャン(ドイツ語版)が行った[8]。また市庁舎にはフォークトのベルリン市民記念碑(ドイツ語版)が飾られ、内部にも「ケーペニックの大尉」に関するいくつかの展示とケーペニック歴史博物館の展示への案内が設置されている。ベルリンのフィルム・アーカイブにはフォークトに関する各種文書がフィルムとして保管されている。

彼がかつて暮らしたヴィスマールにもいくつかの記念碑があるほか、ロンドンのマダム・タッソー館にも彼の蝋人形が展示されている。

フォークトが制服を購入したポツダムの古着屋。看板には「ケーペニックの大尉」に関する説明がある。

ケーペニック市庁舎(ドイツ語版)前に建てられた「ケーペニックの大尉」の像。

ヴィルヘルム・フォークトのベルリン市民記念碑(ドイツ語版)

「懐かしのベルリン」展にて展示されるフォークトの蝋人形(1930年5月)

東ドイツで催されたベルリン750周年記念のパレードに登場した「ケーペニックの大尉」。ヘルベルト・ケーファー(ドイツ語版)が演じた(1987年)

文化への影響
演劇、文学、映画

事件直後から、またフォークト逮捕後も引き続き、ベルリンの劇場ではケーペニック事件を題材とした風刺劇が上演された。事件から3日後の10月19日付の社民党機関紙『前進(ドイツ語版)』紙には、既にスケッチ・コメディーとしてケーペニック事件が演じられている旨を報じる記事がある。メトロポール劇場(ドイツ語版)でも毎日のレヴューの1つとして演じられた。『ケーペニックのシャーロック・ホームズ』(Sherlock Holmes in Kopenick) と題された喜劇も作られた。

最初の舞台劇『Der Hauptmann von Kopenick』は、劇作家ハンス・フォン・ラファレンツ (Hans von Lavarenz) によって1906年に脚本が書かれ、ベルリンの4劇場で初演された。その他にマインツトリエステインスブルックなどでもケーペニックの大尉を題材とした喜劇が上演され、1912年にはライプツィヒでも別の舞台劇が作られている。

1908年、フォークトの釈放に合わせてキールのミュージックホールで『Der Hauptmann von Kopenick』と題した催し物が開かれた。フォークトは自らも出演しようと考えキールへ向かったものの、群衆の混乱を恐れた当局によってホールへの入場が阻止されてしまった。

最初の映画も1906年中に製作されている。事件から3ヵ月後にはドキュメンタリー形式でケーペニック事件を描いた短編映画が3本も発表されている。

ミステリー作家のハンス・ヒャン(ドイツ語版)は、1906年に『Der Hauptmann von Kopenick, eine schaurig-schone Geschichte vom beschrankten Untertanenverstande』(=ケーペニックの大尉。臣民の偏狭な理解という、ひどく素敵な物語)と題した詩集を発表している。また1909年に発表されたフォークトの回顧録には序文を寄せている。

1926年、最初の長編映画『Der Hauptmann von Kopenick』が発表される。監督はジークフリート・デッサウアー(ドイツ語版)で、ヘルマン・ピヒャ(ドイツ語版)が主演を務めた。ただし、この映画のフィルムはナチス・ドイツの時代に失われてしまった。

1930年、作家ヴィルヘルム・シェーファー(ドイツ語版)は、フォークトの半生を描いた小説『Der Hauptmann von Kopenick』を発表した。同年、カール・ツックマイヤーも『Der Hauptmann von Kopenick. Ein deutsches Marchen in drei Akten』(=ケーペニックの大尉。三幕のドイツ・メルヘン)と題する3編の連続悲喜劇を発表した。ツックマイヤーの喜劇は1931年3月5日にベルリンのドイツ劇場(ドイツ語版)で初演された。同年、リヒャルト・オスヴァルトが新しい長編映画を発表している。アルベルト・バッサーマンはアメリカへ亡命した後にオスヴァルトの映画をリメイクした『I Was a Criminal』を発表している。これはケーペニック事件を題材にした最初の英語作品であった。ヘルムート・コイトナー(ドイツ語版)は1945年にラジオドラマを製作している。そのほかにもツックマイヤーの演劇を原作とする映画が何本か製作された。1971年にはツックマイヤーの演劇がジョン・モーティマーによって『The Captain of Koepenick』として英訳された。

1932年にも『Der Hauptmann von Kopenick』と題したコメディ映画が製作されているが、フィルムが現存せず詳細は不明である。

オットー・エーマースレーベン(ドイツ語版)が2003年に発表した小説『In den Schrunden der Arktik』にはカール・マイとフォークトが出会うシーンが描かれている。

2006年10月、ケーペニック事件100周年を記念してケーペニック市庁舎内でツックマイヤーの劇が上演された[9]。以後、毎年10月に記念式典と上演が行われている。また同年には新しい脚本『Das Schlitzohr von Kopenick ? Schuster, Hauptmann, Vagabund』が書かれた。この脚本は娯楽性が強調されていたツックマイヤーの脚本に比べて、より現実のフォークトの人生を反映した史実重視の内容になっている。
ツックマイヤーの脚本について

ツックマイヤーの脚本のうち第2幕および第3幕ではケーペニック事件が描かれているが、事件の10年前と設定されている第1幕は大半が架空の出来事である。地方出身のフォークトがベルリン方言を話すといった些細な変更に加えて、彼を主人公に相応しい「高貴な泥棒」として描くべく大幅な脚色が加えられている。また犯行の動機については、フォークト自身が語った「大金ではなく、旅券だけが必要だった」という説明をそのまま用いており、クライマックスでは自発的な自首と釈放後に旅券を受け取るシーンが描かれた。また制服についてもきちんと一式揃っていたものを入手したとされ、さらにはケーペニック市長を含む制服のかつての持ち主の背景も描かれていく。そして当時のドイツ社会における軍人の社会的地位を示す為、将校団と制服に無条件の敬意を抱く市民や下士官兵の象徴として、陸軍下士官を務めているフォークトの兄が登場する。ツックマイヤーの目的はケーペニック事件を通して帝国軍や軍国主義のカリカチュアを描くことにあったとされる。

一方で、帝国時代からドイツ国内に存在した反ユダヤ的思想もいくらか取り入れられており、商店主や仕立て屋として登場するユダヤ人はいずれもステレオタイプ的な描かれ方をしている。
映画

主なものを以下に示す。

1906年『Der Hauptmann von Kopenick』 - ハインリヒ・ボルテン=ベッカース
(ドイツ語版)監督の無声映画。エルンスト・バウマン (Ernst Baumann) がフォークトを演じた。

1906年『Der Hauptmann von Kopenick』 - カール・ブデルス(ドイツ語版)及びカール・ゾンネマン (Carl Sonnemann) 監督の無声映画。


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