ヴィルヘルム・フォン・プロイセン_(1882-1951)
[Wikipedia|▼Menu]
10月には軍司令官として外国人特派員に向けて以下のプレス発表を行っている[5][6]。これは現代で最も愚かで無意味な戦争であります。これはドイツにとって望まない戦争ですが、我々は競争を望む世界において自分自身を守るために戦うという事実を私はあなたたちに保証します。 ? 皇太子ヴィルヘルムヴィルヘルムとヒンデンブルク(1916年)

1916年ヴェルダンの戦いでドイツ軍を指揮するが、ヴェルダンの攻略に固執して戦力を逐次投入したため多大な損害を出す結果となった。被害の甚大さを痛感したクノーベルスドルフと参謀総長エーリヒ・フォン・ファルケンハインは攻撃の中止を進言するが、消耗戦の概念とそれに基づくヴェルダンのでゲリヒト(裁判)作戦を理解しないヴィルヘルムは聞き入れず攻撃を承認させ戦闘を続行した。しかし、ロシア軍のブルシーロフ攻勢、イギリス軍のソンム攻勢が開始されると戦力を分散させる必要が出たため戦線は縮小していった。ヴィルヘルムは11月に第5軍司令官を退任したが、その後は軍集団「ドイツ皇太子」(ドイツ語版)司令官として軍務を執り続けた。1917年に参謀次長エーリヒ・ルーデンドルフと帝国宰相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークが対立した際には、ルーデンドルフに与してホルヴェークの失脚に協力した。こうした行為は結果的にヴィルヘルム2世の影響力低下を招くこととなった。

1918年ドイツ革命が発生した際、参謀長フリードリヒ・フォン・デア・シューレンブルク(ドイツ語版)とカール・フォン・オイネム(ドイツ語版)に亡命を進言され拒否したが、11月10日に人民委員評議会(ドイツ語版)によって軍集団司令官を解任される。参謀総長パウル・フォン・ヒンデンブルクは内戦を避けるためヴィルヘルム2世と共に亡命するように進言し、進言を受け入れたヴィルヘルムはオランダに亡命しウィーリンゲン島(英語版)に抑留された[7]。11月28日にヴィルヘルム2世が退位(ドイツ語版、英語版)宣言書に署名し、12月1日にはヴィルヘルムも退位宣言書に署名した。
ヴァイマル共和政左からヴィルヘルム、父ヴィルヘルム2世、長男ヴィルヘルム(1927年)

1921年、オランダを訪問したグスタフ・シュトレーゼマンと会談し、一市民としてドイツに帰国したい旨を伝えた。1923年にシュトレーゼマンがドイツ国首相に就任すると、政治活動をしないことを条件に帰国が認められ、11月23日にドイツに帰国してツェツィーリエンホーフ宮殿に再び居住した[8]

しかし、ヴィルヘルムはシュトレーゼマンとの約束を破り政治活動を始め、1928年にはベニート・ムッソリーニファシズムを称賛し、1930年には鉄兜団、前線兵士同盟に加わりハルツブルク戦線の結成に参加した[9]:13。1932年ドイツ大統領選挙ではヒンデンブルクとナチ党アドルフ・ヒトラーの競合で右翼の票が分散することを防ぐため、統一候補として出馬することをドイツ国家人民党と協議したが、オランダに亡命中の父から反対され中止し、ヒトラーを支持するようになる[9]:13。

ヴィルヘルムとヒトラーは1926年にツェツィーリエンホーフ宮殿で会談しており、その際にヒトラーが帝政の復活を約束したことから両者の関係が始まった[10]1932年4月14日、ハインリヒ・ブリューニング内閣が突撃隊親衛隊の活動禁止令を出した際には、内務大臣ヴィルヘルム・グレーナーに抗議している[11] 。また、1933年に会談した際には「ヒトラー大統領、ヴィルヘルム首相」として権力を二分することを提案し、ヒトラーも提案を受け入れたが、この計画も父の反対に遭い失敗している[12]。この際、ヴィルヘルム2世は「計画を実行し首相になるということは共和国に忠誠を誓うということだ。もしそうするならば廃嫡し、ホーエンツォレルン家から追放する」と迫ったという[13]
ナチス・ドイツヴィルヘルムとヒンデンブルク(1933年)

1933年1月30日、ヒトラー内閣が成立した際には「ヒトラーはムッソリーニのように成功を収めることになる」とヒトラーの首相就任を歓迎した。同年突撃隊に入隊し、1934年には国家社会主義自動車軍団(NSKK)に参加した[14]。ヴィルヘルムはナチ党の広告塔として各地を巡り、ヒトラー政権を宣伝して回った。ヴィルヘルムはジェラルディン・ファーラーに宛てた手紙に「ユダヤ人キリスト教徒を追放し経済危機を招いた。華麗なる指導者ヒトラーは共産主義者との戦いのために更なる時間を必要としており、全世界のために彼を称賛しなければならない」と記している[12]

しかし、1934年長いナイフの夜で友人であったクルト・フォン・シュライヒャーが粛清されると、ナチ党と距離を置くようになった[15]。また、側近のルイ・ミュルダール・フォン・ミュルンハイム(ドイツ語版)が逮捕され、4週間に渡り拘留されたことで、ヒトラーは帝政を復活させる気がないと判断し、両者の関係が悪化した[15]1936年第二次エチオピア戦争に勝利したムッソリーニに祝電を送ったが、エチオピア帝国に武器を輸出して戦争の長期化を図っていたナチ党指導部と対立し、NSKKを脱退した[16]。その後は反ヒトラー派の中でも帝政復活を目指すグループとの関係を構築し、ヒトラー失脚後に皇帝に即位することを望んでいた。1941年に父が死去すると、プロイセン王家の家長を相続した。ヴィルヘルムとヒトラー(1933年)

1944年7月20日事件が発生するとヴィルヘルム一家はゲシュタポの監視下に置かれるようになった[9]:11?15。1945年1月に胆嚢と肝臓の治療のためオーベルストドルフに向かい、ツェツィーリエと次男ルイ・フェルディナントは2月に赤軍から逃れるため、バート・キッシンゲンに疎開した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:49 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef