1918年10月29日、ドイツの敗戦を目前にしてエーリッヒ・ルーデンドルフが参謀次長を辞すると後任に就任し、名目上の最高司令官である参謀総長パウル・フォン・ヒンデンブルク元帥の下で全ドイツ軍の撤収と復員の責任を負うことになる。
11月にドイツ革命が発生すると、彼は革命のボルシェヴィキ化を防ぐため、フリードリヒ・エーベルト率いる穏健派のドイツ社会民主党(SPD)が主導する臨時人民代表委員会を支持した。11月10日にグレーナーはエーベルトと電話協議して、軍部はエーベルトの暫定政府に従うことを表明した(エーベルト・グレーナー協定(ドイツ語版))。これによりエーベルト暫定首相は強力な後ろ盾を得て、政権が安定化することになる。軍部に多かった君主制の支持者はのちのちまでグレーナーを「裏切り者」と非難したが、彼は「革命という事態の中では、新しいドイツにプロイセンの伝統を活かす最善の道だった」と反論した。グレーナーも当初は君主制を支持しており、帝政は維持するべきと主張していた。またエーベルトが皇帝の退位を示唆すると、グレーナーは憤慨していた。
政治家グレーナー内相(1932年)
1919年6月のヴェルサイユ条約締結もグレーナーは承認した。同月、ヒンデンブルクの辞任を受けて参謀総長に就任した。しかし9月にエーベルトの反対を押し切って軍を辞し、短い引退期間ののち政界に転身する。どの政党にも属さないが、エーベルトの要請で1920年6月にフェーレンバッハ内閣に無所属の交通大臣として初入閣してから、1923年まで四次の内閣でその職を務めた。彼の主な功績は、帝国鉄道の再建であった。1923年にクーノ政権が退陣すると、グレーナーは政界を離れ、『Das Testament des Grafen Schlieffen』などの軍事・政治論文を執筆した。1928年1月にヴィルヘルム・マルクス内閣のオットー・ゲスラー国防相が秘密軍備計画で辞職に追い込まれると、1928年1月20日、大統領ヒンデンブルクは彼の後任としてグレーナーを再入閣させた。
1931年にはブリューニング内閣で内務大臣を兼任。1932年5月に各州の内務省の強い要望で、ナチ党の突撃隊を禁止すると、ナチ党の与党への取り込みを図る国防次官クルト・フォン・シュライヒャーと対立した。また、ドイツ元皇太子のヴィルヘルムも同年4月14日にグレーナーに抗議した[3]。1932年5月10日の第62回帝国議会で、グレーナーはSA禁止令を正当化した。この演説には、ナチ党の代議士たちから激しい抗議があった。しかし、グレーナーは、軍部に勢力を持ちヒンデンブルク大統領の側近でもあるシュライヒャーの要求には逆らえず国防相を辞任。直後のブリューニング内閣退陣で内相の座も失った。シュライヒャーが立ち上げた新首相フランツ・フォン・パーペンは、直ちにSAを復帰させた。1934年にポツダムのボルンシュテットに移り住み、そこで回想録『Lebenserinnerungen』を執筆した。その後は公の場に出ることもなく、1939年5月3日に同地で死去した。
家族グレーナーの墓
グレーナーは二度結婚し、あわせて一男一女をもうけた。最初の妻ヘレネ(1926年死去)が1900年に産んだ娘ドロテア・グレーナー=ゲイヤー(1900 ‐1986)は、1948年に婦人運動団体の会長になり、男女同権運動で活躍した。
脚注^ a b c “ ⇒Biografie Wilhelm Groener (German)”. Bayerische Staatsbibliothek. 2013年6月26日閲覧。
^ a b “Biografie Wilhelm Groener (German)”. Deutsches Historisches Museum. 2014年7月11日時点の ⇒オリジナルよりアーカイブ。2013年5月22日閲覧。
^ Bernd Ulrich: Letzter Abwehrversuch, Deutschlandfunk, 13. April 2007
外部リンク
⇒ドイツ歴史博物館 経歴紹介(ドイツ語)
公職
先代
ヨーゼフ・ヴィルト 内務大臣
1931年 - 1932年次代
ヴィルヘルム・フライヘル・フォン・ガイル
先代
オットー・ゲスラー 国防大臣
1928年 - 1932年次代
クルト・フォン・シュライヒャー
先代
グスタフ・バウアー 交通大臣
1920年 - 1923年次代
ルドルフ・エーザー
軍職
先代
パウル・フォン・ヒンデンブルク 陸軍参謀総長
1919年次代
ハンス・フォン・ゼークト
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