1784年にはブレーメン博物館協会 (Bremer Museumsgesellschaft) の会員に選ばれ、1789年から1831年まで理事を務めた。ここでは天文学や気象などに関する多数の講演を行った(医学に関する講演は1度きりだった)。1804年には、ロンドンの王立協会フェローにも選出された。ブレーメンがナポレオンの占領下となった1811年には、ブレーメンの代表としてパリを訪ねた[4][5]。
1818年、娘ドリスが早世し、1820年には二番目の妻アンナ・アーデルハイトも亡くなった。自身の健康上の理由もあってオルバースはこのとき医者を廃業したが、天文学の研究は継続した[4]。
オルバースは胸部の疾患のため、1840年3月2日、81歳で死去した[4]。息子ゲオルク・ハインリヒ・オルバースはブレーメンの議員を務めた。曽孫にあたるヴィルヘルム・オルバース・フォッケ (英語版:Wilhelm Olbers Focke, 1834–1922) はキセニアの概念を提唱した植物学者である。オルバースが遺した蔵書のコレクションは天文学に関して当時のヨーロッパで最大級のものであった[5]。オルバースの死後、ロシア・サンクトペテルブルク郊外に新設されたプルコヴォ天文台のフォン・シュトルーベに買い取られたが、第二次世界大戦と1997年の放火により大きな損傷を受けた[11]。
オルバースを顕彰し、ブレーメン旧城壁沿いの公園ヴァルアンラーゲン (独語版:Wallanlagen) にはオルバースの記念像があり、現在ブレーメン市の一部となっている生地アーバーゲンにはオルバース通り (Olbersstrase) がある。オルバースの名は、その功績を称えて、小惑星や月のクレーターにも付けられている。
(1002) オルバーシア (小惑星):火星と木星の間の小惑星帯にある小惑星
オルバース (クレーター):月の西の周縁、嵐の大洋の西端に位置するクレーター
オルバース・レジオ:小惑星ベスタにある直径200kmのアルベドが低い地域
小惑星の発見とオルバースの仮説ブレーメン・ザント通り、聖ペトリ大聖堂そばにあったオルバースの住居(現存しない)。1899年撮影。2つの出窓の内側にオルバースが観測を行った望遠鏡が見える。
1781年にウィリアム・ハーシェルによって新たな惑星である天王星が発見され、地球以外の惑星は古代から知られた5つだけではないことが明らかとなった。特に、19世紀初頭までにはティティウス=ボーデの法則を論拠として、軌道の開いた火星と木星の間には未発見の惑星があるという推測がなされ、フォン・ツァッハ、シュレーターらによって天空の警察 (独語版:de:Himmelspolizey) と呼ばれた組織的な探索も開始されていた。これは黄道帯を24の領域に分割し各地の天文台で分担して捜索するという前例のない国際的プロジェクトだった。オルバースもこの探索プロジェクトにおいて重要な役割を果たした。
はたして、1801年初頭にシチリアのピアッツィが新天体ケレス (小惑星符号: (1) Ceres) を発見した。ただしこれは惑星探索と別に発見されたもので、当初ピアッツィはそれを彗星と考えた。しかし、すぐにその動きが円に近い軌道にふさわしいものだと判明した。短い期間の観測記録からガウスが導いた位置予測を元に、1801年12月になってフォン・ツァッハとオルバースが太陽の反対側を巡ってきたケレスをそれぞれ再発見し、ケレスが4.6年の公転周期で太陽を周回し、予測されていた火星と木星の間の軌道を持つ天体であることが確かめられた。オルバースらがガウスの軌道計算の手法の正しさを証明したことは、ガウスの名声を高めることとなった[8][12][13][注 1]。
それからわずか数か月後の1802年3月28日にこのケレスを探索していたオルバースは、偶然にも近くに記録にない星を見出だし、時間とともにそれがわずかに移動していることを確認した。驚くべきことにガウスによって求められたこの天体の軌道はケレスとよく似ていた。軌道面の傾きと離心率こそ大きかったが、ほぼ同じ軌道長半径を持ち、よって火星と木星の軌道の間をほぼ同じ4.6年で公転していた。